1. お金という「レンズ」を再考する

先日、田内学さんの『きみのお金は誰のもの』を読みました。この本が私たちに突きつける問いは非常にシンプルでありながら、現代人が見失っている本質を突いています。それは、「お金という数字の向こう側には、必ず誰かの労働(助け合い)がある」ということです。

私たちはつい、通帳の数字を増やすことや、いかにお金を「かき集めるか」に執着してしまいます。しかし、本書は「お金とは社会全体を良くするためのチケット」であるという視点を与えてくれます。この視点は、実は聖書が2000年以上前から提示し続けてきた「世界の見方」にも通じるものだと言えます。

今回は、この本をガイドにして、聖書の経済観について、少し考えてみたいと思います。


2. 「オイコノミア」—経済の本来の意味は「管理」にある

現代で「経済(Economy)」といえば、GDPや株価、インフレ率といった数字の世界を指します。しかし、この「エコノミー」の語源であるギリシア語の「オイコノミア(οἰκονομία)」は、一般的に連想されるような「経済」とは全く異なる理解を私たちに教えてくれます。

この言葉は、「家」を意味する”οἶκος(オイコス)”と、「管理する」を意味する”νέμω(ネモー)”から成る言葉です。ちなみに、「律法」や「規範」を意味する”νόμος(ノモス)”の語源は”νέμω”です。このような語源を踏まえるなら、「オイコノミア」とは、本来「神の家(族)をいかに養い、管理するか」という「スチュワードシップ(管理者としての務め)」を意味していることがわかります(ESVでは、”good stewards of God’s varied grace”)。

聖書にはこのような言葉があります。

10 あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人(οἰκονόμοι)として、それをお互のために役立てるべきである。

ペテロの第一の手紙4章10節(口語訳聖書)

この箇所から教えられる聖書的な視点に立つなら、お金や才能、時間というあらゆる「賜物」はすべて「自分のもの」ではなく、神から「預かっているもの」だと言えます。その中でも、誰にとっても身近なものとして「お金」が挙げられます。

本書で指摘されているように、お金は貯め込むこと自体に価値があるのではなく、それを使って誰かに何かをしてもらう、つまり「社会の労働を循環させる」ためにあります。 私たちが「スチュワードシップ」を意識するとき、経済活動は単なる個人的な損得勘定から、「神が創られたこの世界(家)を、皆でいかに豊かにしていくか」という壮大なプロジェクトへの参画へと変貌すると言えるのではないでしょうか。


3. 「召命」としての仕事

「お金を稼ぐ」という行為を、私たちはしばしば「自分の生活を維持するための苦役」と捉えがちです。しかし、神学的な視点で捉えるならば、仕事は単なる苦役ではなく、そこには「召命(Vocation)」という光が差し込みます。

宗教改革者のマルティン・ルターは、すべての正当な職業は神からの呼びかけ(召命)であると説きました。彼はこれを「神の仮面(larvae Dei)」という言葉で表現しています。神は天からパンを降らせることもできますが、あえてパン屋の仕事を通して私たちを養われます。つまり、パン屋は神が隣人を養うための「仮面」となっているのです。

田内さんの本では、「お金を払うことは、誰かに働いてもらうこと(=助けを借りること)」であり、「お金を稼ぐことは、誰かのために働くこと(=助けを与えること)」であると説明されています。 これはまさに、ルターの言う「召命」の現代的な解釈だと言えるように思います。私たちがパソコンに向かったり、誰かの相談に乗ったり、荷物を運んだりするとき、それは数字を稼いでいる以上に、「目に見えない隣人の必要に応え、彼らに仕えている」という霊的な営みでもあるのです。仕事(お金)の向こう側に、神が愛しておられる隣人の顔を見ること。これが、聖書が教える働くことの真髄だと言えるのではないでしょうか。


4. 所有から循環へ

聖書は富そのものを否定はしませんが、それを「自分のために囲い込むこと」には極めて厳しい警告を発します。なぜなら、富の本来の性質は「流れること」にあるからです。

パレスチナには二つの有名な湖があります。ガリラヤ湖はヨルダン川から水が流れ込み、また流れ出すため、魚が住み、周囲には緑が豊かです。一方、死海は水が流れ込むだけで出口がないため、塩分濃度が極限まで高まり、生き物が住めない死の世界となっています。 経済もこれと同じです。田内さんは、社会全体が良くなるためにお金というチケットをどう回すかが重要だと教えています。ちなみにこれは、神学用語で「共通善(Common Good)」と呼ばれるものにも通じているように思います。

使徒パウロは、このように勧めています。

 4 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。

ピリピ人への手紙2章4節(口語訳聖書)

このような「循環」の視点を持つとき、私たちの消費行動も変わってくるのではないでしょうか。安いから買う、自分だけが満足するから買うという基準を超えて、このお金がどこへ流れ、誰の生活を支え、どのような社会を形作っていくのか。その循環の質に責任を持つことが、クリスチャンとしての知恵あるお金の用い方と言えるのではないでしょうか。


5. 愛のネットワークとしての社会

『きみのお金は誰のもの』は「経済」の本ですが、それは無味乾燥な知識ではなく、あえて「物語(ストーリー)」として紡がれています。読み終えたとき、私はなぜストーリーが必要だったのかを強く実感しました。それは、経済とは私たちの生活そのものであり、そこには必ず「人」がいるからです。

だからこそ、本書の最後では「愛」にフォーカスされます。 経済の本になぜ愛が?と思われるかもしれませんが、そこが最も核心だと言えます。聖書の視点で見れば、社会とは冷徹な市場原理で動く機械ではなく、「目に見えない愛と信頼のネットワーク」です。

お金というツールは、そのネットワークを可視化し、円滑にするためのものです。私たちが支払いをし、対価を受け取るとき、そこには神の恵みの循環があります。「私のお金」という狭い檻を飛び出し、託された資源でいかに隣人を愛し、社会を耕していくか。その問いを持ち続けることこそが、私たちに今、必要な姿勢なのだと思いますし、それこそ聖書が教えていることであるように思われます。