新約聖書、特にパウロ書簡を読む上で、現代の神学者たちが長きにわたって激しい議論を交わしてきたフレーズがあります。最近はいくぶん熱狂も落ち着いてきたように見受けられますが、それはギリシア語の「ピスティス・クリストゥ(pistis Christou)」という短い言葉です。
直訳すると「キリストのピスティス(信仰/真実)」です。 このたった二つの単語をどう訳し、どう解釈するかによって、私たちが受け取る「救い」のニュアンスも大きく変わってきます。今回は、近年のパウロ研究におけるこの「ピスティス論争」の変遷をざっくりたどりながら、個人的にも納得している現時点での結論をご紹介します。
1. 伝統的な理解:「キリスト“への”信仰」(目的格属格)
ルターやカルヴァンなどの宗教改革以降、伝統的にこの言葉は「キリストへの信仰(faith in Christ)」と訳されてきました。つまり、ピスティス(信仰)の主体は「私たち人間」であり、その向かう対象(客体)が「キリスト」である、という理解です。 「人が義と認められるのは、行いによるのではなく、キリストを信じる信仰による」とパウロが語ったように。これは、信仰者が自分の力ではなく、ただキリストを信じて受け入れることによって救われるという、プロテスタント信仰の土台となる力強いメッセージです。現在でも、文脈上の理由からこの伝統的解釈を強く支持する学者は少なくありません。
2. 近年のパラダイムシフト:「キリスト“の”真実さ」(主格的属格)
しかし、ここ数十年でパウロ研究に大きなパラダイムシフトが起きました。とりわけ、近年ではリチャード・ヘイズ(Richard B. Hays)などの学者が、これを「キリストの真実さ/忠実さ(faithfulness of Christ)」と訳すべきだと強く主張したのです。もちろん、それ以前にもこのような解釈がなかったわけではありません。
この読み方によれば、ピスティスの主体は「キリストご自身」になります。私たちが救われるのは、私たちの心の中にある「信じる力」ゆえではありません。キリストご自身が、十字架の死に至るまで父なる神に対して「忠実(真実)」であられた。そのキリストの絶対的な従順と真実さこそが、私たちを救う根拠である、というのです。
最近の研究ではさらに発展し、十字架での出来事だけでなく、復活し今も生きてとりなしておられる「高挙されたキリストの継続的な忠実さ」に焦点を当てる学者(D. ダウンズやB. ラッペンガなど)も登場しています。
David J. Downs and Benjamin J. Lappenga, The Faithfulness of the Risen Christ: Pistis and the Exalted Lord in the Pauline Letters (Waco: Baylor University Press, 2019).
※この本は、「キリストの真実さ(主格的属格)」を支持し、さらに議論を一歩前に進めた近年の重要な研究だと言われています。 これまでの「キリストの真実さ」を強調する学者たち(リチャード・ヘイズなど)が、主に「十字架の死に至るまでのキリストの(過去の)従順」に焦点を当てていたのに対し、ダウンズとラッペンガは、「復活し、高挙されたキリストの(現在進行形の)真実さ」に特化して議論を展開しているのが最大の特徴です。 キリストが今も生きており、信仰者のために執り成し、支配し続けているという「継続的な真実さ」がパウロの手紙においてどう描かれているかを論証しています。
3. 新たな視点:「関係性」としてのピスティス
「私たち」の信仰か、それとも「キリスト」の真実さか。長らく二項対立で語られてきたこの議論に対し、近年、さらに新しいアプローチが提示されています。
古代の文献を深く調査したテレサ・モーガン(Teresa Morgan)やピーター・オークス(Peter Oakes)らは、当時の社会においてピスティスとは単なる「心の内側の信条」ではなく、神と人、また人と人との間に共同体を創り出す「関係的な生き方(relational way of life)」、つまり「信頼と誠実さの絆」であったと指摘しています。キリストが私たちに対して真実であり、私たちがキリストに対して信頼(忠誠)を返す。その双方向の関係性そのものがピスティスなのだ、という視点です。
4. モーナ・フッカーの「同心円」——波紋のように広がるピスティス
では、結局私たちは「ピスティス・クリストゥ」をどちらで読めばよいのでしょうか? この長く激しい論争に対し、モーナ・フッカー(Morna Hooker)は、二者択一の対立を乗り越える非常に美しく、神学的に深い「第三の道」を提示しています。
彼女は、ピスティス(信仰/真実)を、水面に石を投げたときに広がる「同心円(concentric)」の波紋のようなものだと語りました。中心には常にキリストの真実があり、私たちがそのキリストの生き方のパターンの中に身を置くとき、外側の波紋として「私たちの信仰」が生まれるのです。
そのフッカーの主張について、ストローブリッジはこのように述べています。
Hooker argues that Christ’s faithfulness is the pattern of life that believers inhabit and thus pistis Christou is understood best not as Christ’s faith or faith in Christ, as if these are opposed to one another, but in a concentric manner that begins with Christ’s faith and includes the faith of believers. To the question “Does this phrase refer to Christ’s faith or ours?” Hooker answers, “Both.” Nevertheless, she offers the caveat that faith/faithfulness is primarily Christ’s and that believers share in it only because they are “in Christ.”
[拙訳]フッカーは、キリストの真実さとは、信者がその中に身を置く『生き方の型(パターン)』であると論じている。したがってピスティス・クリストゥは、あたかもそれらが互いに対立するものであるかのように『キリストの信仰』や『キリストへの信仰』として理解するのではなく、キリストの信仰から始まり信者の信仰を包含するような『同心円的な形』で理解されるのが最善である。『このフレーズはキリストの信仰を指しているのか、それとも私たちの信仰を指しているのか?』という問いに対し、フッカーは『両方』と答える。それでもなお彼女は、信仰/真実さとは第一義的にはキリストのものであり、信者がそれを共有できるのは、ただ彼らが『キリストのうちに(in Christ)』いるからにすぎない、という重要な留意点を提示しているのである。
Jennifer Strawbridge, “Romans,” in The State of Pauline Studies: A Survey of Recent Research, ed. Nijay K. Gupta, Scot McKnight, and Erin M. Heim (Grand Rapids, MI: Baker Academic: A Division of Baker Publishing Group, 2024), 146.
5. 結び
伝統的な「キリストへの信仰」という言葉は、時に私たちを重圧で押しつぶすことがあります。「信じる心が弱いからダメなのだ」「もっと強く信じなければ」と、信仰をまるで自分の力で達成すべきノルマのように感じてしまうからです。
しかし、パウロが語った「ピスティス・クリストゥ」の豊かさを知る時、私たちはその重荷を下ろすことができます。
信仰とは、私たちがゼロから作り出すものではありません。私たちがどれほど不真実で、疑い深く、信じる力が弱くなっていたとしても、波紋の中心には常に「キリストの絶対的な真実さ」が揺るぎなく存在しています。私たちはただ、その波紋の中に「身を置く(in Christ)」だけでいいのです。
私たちが神を信じられない日も、キリストは私たちに対して真実であり続けています。このピスティス・クリストゥ論争が教えてくれるのは、神学的な正解だけでなく、「自分の信仰の弱さに絶望しなくていい」という、深く静かな安らぎなのかもしれません。
