詩篇31篇「『生きた者』とされた」

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 創世記2章には、人間が神によって創造される出来事について記されています。中でも最も特徴的なのは次の一文です。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(2:7)。ここで言われる「生きた者」とは一体何を意味するのでしょうか。これは、単に人が生きるようになったという意味ではないでしょう。なぜなら、人間以外にも生きている動植物が存在したのに対して、それらはこのようには呼ばれていないからです。それでは、人間と動植物の違いは何でしょうか。それは、人間には「命の息」を吹き込まれたという点です。

 詩人は告白しました。「わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。主、まことの神よ、あなたはわたしをあがなわれました。」(31:5)。ここで「魂」と訳されている言葉は「ルーアッハ」というヘブル語で、「霊」と訳されたり、他にも「風」や「息」という意味があります。これは、まさに人間が神によって「命の息」を吹き入れられたことに通じています。人間にとっての「魂(命の息)」とは、命よりも根源的なもの、すなわち、生命の活力の源です。それはもっと言えば「生きる意味」にも直結するものでもあると思います。人間は神によって造られ「生きた者」とされました。その生命には、他の被造物とは全く異なる特別な意味があります。その中には、この被造世界を正しく管理することや神の祝福の中で繁栄することなどが含まれることが創世記を読むとわかります。これらが実現されるために必要不可欠なことは、人の進む道が主によって方向づけられることです。言い換えるならば、それは人の生き方が主によって意味を与えられるものであることを認めるということです。

 もし私たちが自分で自分の生き方に意味を与えるなら、自分にとって意味もないと思われるものは全て不要となります。しかしながら、人の生命の活力の源は主によって与えられ、主によってその生き方が方向づけられるべき存在です。それは逆境の時も例外ではありません。だからこそ、詩人は苦難の中にあって、主の御手に「魂(ルーアッハ)」をゆだねると告白しました。これは、命を諦めたという消極的な意味ではなく、もっと積極的な行為です。つまり、自分が生きる意味は主によって方向づけられ、たとえそれが苦難だとしても、そこには主の御手があることを信じ、任せる「信頼」の表明です。

 ですが、これは直面する「苦難」を何も考えずに受け入れるという、いわば思考停止の状態ではありません。人間に理解できないような問題に直面する時、私たちは悩み葛藤することができます。決して無感情になることが求められているわけではありません。むしろその中で、主への信頼を選び取っていくことが信仰の旅路ではないでしょうか。イエス様もまさにそのように父なる神に対する信頼を選び取り、私たちに「信頼」とは何かを身をもって教えてくださいました。イエス様ご自身も、十字架の道を進むことは決して「簡単」なことではなかったのです。そこには、苦しみや葛藤がありました。

 「わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。」この告白は、生命の活力の源、また生きる意味は、主から与えられるという信頼の表明です。これは苦難の時にはなおさら簡単なことではないかもしれません。それでも私たちが「生きた者」とされたことの意味を考え続けるその信仰生活は、神によって造られたことの目的に応えようとする信仰者の精一杯の応答です。ですので、私たちもこの詩人とイエス様に倣って、生きる意味は主によって与えられていることを日々覚えながら、信頼を告白しつつ歩む者でありたいと願います。

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