詩篇34篇「骨が折られない者」

詩篇34篇「骨が折られない者」 OT Messages
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 詩人は苦難と恐怖の中にありながら、主を賛美しています。それはひとえに、主の主権を受け入れ、主に信頼しているからです。確かに目の前には、恐怖があります。しかし、何より恐れるべきは主ご自身であることを知る時に、主への恐れ以外の恐怖は後退します。また、詩人は苦難の只中にいますが、それらの苦難を凌駕するほどの神のあわれみを知っています。それゆえに詩人は確信を持って勧めます。

主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。

詩篇34篇8節(口語訳聖書)

詩人は苦難と恐怖がなくなったから、主を信頼したわけではありません。主を信頼しているからこそ、苦難と恐怖の中にあっても、平安が与えられたのです。

 このような詩人の経験から、一つの事実が明らかにされます。それは「正しい者には苦しみが多い」(19節)ということです。

 詩人はまさに苦しみの只中にありました。しかしながら、苦しみが多いのは「正しい人」に限ったことではありません。誰もが苦しみを経験しています。それでは「正しい者には苦しみが多い」とはどのような意味でしょうか。

 ここで「正しい者」という言葉に注目してみましょう。これはヘブル語で「צַדִּ֑יק(ツァーディーク)」という言葉ですが、「義人」とも訳される言葉です。義人とは、罪のない人のことではありません。例えば、ノアも「ツァーディーク」な者でしたけれども(創6:9)、彼は罪がなかったわけではありません(創9:20-21)。義人とは、神との関係の中を生きている者を意味します。言い換えるならば、神を信頼する者です(ノアは神を信頼していたことは方舟の出来事から明らかです)。このような意味を踏まえると、「神を信頼する者には苦しみが多い」と言うことができるかと思います。

 人は誰もが苦しみを経験するわけですが、正しい者にとっての苦しみとは神への信頼が試される(あるいは、神への信頼を持つようになる)出来事でもあります。このような苦しみは、その原因が自分にある時もあれば、そうでない時もあります。ルカの福音書15章の『放蕩息子』のたとえ話では、弟息子の苦しみは自分自身で選んだ結果でした。しかしながら、苦しみの原因がわからないこともたくさんあります。それでも、神との関係に生きる者にとって、それがどのような苦しみであれ、神への信頼を新たにする機会であることに変わりはありません。苦難の中にあって、神を信頼して歩むのか、それとも苦難が解決するまで神を信頼することはしないのか、信仰者は問われています。その上で、詩人は「味わい知れ」と言います。食わず嫌いをせずに、まず味わってみよ、主に信頼してみよと勧めるのです。

 このような詩人の姿勢に倣うことができたら幸いです。しかしながら、それでも苦難の中にあって、葛藤はつきものです。苦難には意味があると素直に受け入れることは、時に不可能に近い場合もあるかもしれません。そのような時は何度でも、イエス様の姿を心に刻みたいと思います。イエス様というのは、誰よりも苦難をお受けになった方であり、その苦難の只中で誰よりも父なる神への信頼を表した方です。

 ヨハネの福音書19章において、詩篇34篇が引用されています。おそらく、ヨハネはこのところを念頭に置いて、イエス様の十字架の出来事を理解しています。

31さてユダヤ人たちは、その日が準備の日であったので、安息日に死体を十字架の上に残しておくまいと、(特にその安息日は大事な日であったから)、ピラトに願って、足を折った上で、死体を取りおろすことにした。 

32そこで兵卒らがきて、イエスと一緒に十字架につけられた初めの者と、もうひとりの者との足を折った。 

33しかし、彼らがイエスのところにきた時、イエスはもう死んでおられたのを見て、その足を折ることはしなかった。 

34しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。 

35それを見た者があかしをした。そして、そのあかしは真実である。その人は、自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなたがたも信ずるようになるためである。 

36これらのことが起ったのは、「その骨はくだかれないであろう」との聖書の言葉が、成就するためである。 

ヨハネの福音書19章31-36節(口語訳聖書)

イエス様の骨が折られなかったのは、(旧約)聖書が成就するためであると、ヨハネは言うわけですが、詩篇34篇はイエス様を予期して書かれた詩ではありません。しかしながら、詩篇34篇において「骨が折られない者」とは「正しい人」を示す点を踏まえるなら、まさに御子イエスは、まことに正しい人、父なる神との関係に生き抜いたお方であったこと、このことが十字架の出来事において成就した、明らかになったとヨハネは示していると言えます。

 このイエス様の姿から、苦難の中にあっても父なる神を信頼するとはどのようなことなのかを教えられます。イエス様にとって十字架の苦難とは、決して無駄なことではなく、イエス様に倣って生きる人々が起こされるためであり、ひいては私たちのためでもあります。それは、私たちが、神の前に正しい者として生きるようになるためです。確かに、今、目の前の苦しみがすぐさま解決されることはないかもしれません。それでも詩人は「しかし、主はすべてその中から彼を助け出される」と告白します。それほどまでに、神を信頼しています。そのような歩みは、苦難の中にあっても確かなものとされます。それは、主に生かされていることを喜ぶ歩みです(12節)。詩人は言います。

13あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな。

14悪を離れて善をおこない、やわらぎを求めて、これを努めよ。

詩篇34篇13-14節(口語訳聖書)

このような歩みを、苦難の真っ只中にいる自分にできるのだろうか。全ての問題を解決してくれたら、このように生きます、と誰もが言いたくなるところですが、主を信頼するという大きな一歩をまず踏み出したいと思わされます。

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