クリスチャンにとって「成長」は重要なテーマの一つです。しかし、私たちはつい、その成長を「他人との比較」や「個人のレベルアップ」として捉えてしまいがちではないでしょうか。
エペソ人への手紙4章13節を細かく見ると、そこには個人の枠を超えた、ダイナミックな「成長」の姿が見えてきます。特に『新改訳2017』が、あえて「一人の」という言葉を訳出した意図に注目してみましょう。
「大人」へと向かうプロセス:語彙の背景
この箇所で「成熟した大人」と訳されているギリシア語は、シンプルに 「ἄνδρα τέλειον(アンドラ・テレイオン)」 となっています。
まず、「人」「大人」と訳される「ἀνήρ(アネール)」について見てみましょう。 標準的な辞書(BDAGなど)では、第一に「成人男性」を指しますが、文脈によっては「子ども」に対しての「大人」というニュアンスで用いられます。
「わたしたちが幼な子であった時には……。しかし、おとな(ἀνήρ)となった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。」(コリント第一 13:11/口語訳)
次に、「成熟した」と訳される「τέλειον(テレイオン)」には、「成熟する」「大人になる」という意味のほかに、「目的を達成する」「完了する」「完全にする」といった意味が含まれます。
パウロ書簡の中では、この言葉は文脈に応じて使い分けられています。
- 「全き(完全な)こと」(ローマ 12:2)
- 「円熟している(大人である)者」(1コリ2:6、フィリ 3:15など)
したがって、エペソ4:13を「成熟した大人」と訳すことは、非常に自然な解釈だと言えます。
なぜ『新改訳2017』は「一人の」にこだわったのか
ここで興味深いのが、主要な邦訳聖書との比較です。
| 聖書 | 翻訳 |
| 口語訳 | 全き人 |
| 新共同訳 | 成熟した人間 |
| 新改訳2017 | 一人の成熟した大人 |
新共同訳や口語訳が単に「人」「人間」としているのに対し、新改訳2017はあえて「一人の」という言葉を補っています。これは原語の単数形を意図的に反映させたものだと言えます。
日本語では単数・複数が曖昧になりやすいため、意識的に訳出しない限り、読み手は「個々人がそれぞれ大人になる」という意味に受け取ってしまいがちです。しかし、ここでパウロが単数形を用いたことには、重要な意味があると考えられます。
「個人の成長」から「キリストのからだの成熟」へ
パウロがここで描いているのは、バラバラな個人がそれぞれ立派になる姿ではありません。そうではなく、教会全体が組み合わされ、あたかも「一人の人間」であるかのように、キリストという頭(かしら)に向かって一致し、成熟していく姿です。
このような理解は、“Corporate Personality”(集合的人格) と呼ばれたりします。パウロ書簡においては、「キリストにあって(in Christ)」を筆頭によく見られる神学的理解です。
聖書の世界観では、アダムという一人が全人類を代表し、キリストという一人が新しい人類を代表します。同じように、教会もまた、バラバラな個人の集合体ではなく、キリストをかしらとした「一つの人格」として捉えられているのです。
この視点に立つとき、私たちの「成長」の定義が変わってきます。 つまり、「私一人がどれだけ立派になるか」という個人主義的な競争ではなく、「私たちが、共にどれだけキリストに似た一つのからだになれるか」という一致への歩みこそが、真の成熟、成長になるということです。
具体的には下記のような特徴が挙げられます。
- 脱・個人主義:「私一人が祈り、聖書を読み、立派になればいい」という考えから解放される。
- 「共に」という視点:共同体において他の人が弱っているとき、それは教会という「一つのからだ」の一部分である自分自身にとっての痛みにもなる。逆に、他の人が成長することは、自分自身の成熟でもある。
- 教会の一致:単に仲良くすること以上の、キリストというかしらのもと、一つの人格として機能するようになること。
このように考えるなら、クリスチャンとしての成長というのは、自分だけ良ければそれで良いというものではなくなります。周りの人の成長を自分の喜びとし、また、痛みを自分の痛みとして分かち合う。そのような歩みの中で、私たちは「一人の成熟した大人」へと、一歩ずつ近づいていくのではないでしょうか。
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