2026年2月8日に衆議院選挙が控えている今日この頃、街には候補者の名前を呼ぶ声が響いています。 ここ数年で何回選挙があったことか。そんなことを考えながら、思い出されたのは、はるか数千年前の聖書の出来事です。

1. 「エジプト」という名の誘惑

かつて南ユダ王国がバビロンに滅ぼされたとき、そこには一つの「政治的選択」がありました。 大国バビロンの脅威を前に、当時の指導者たちがすがったのは神の言葉ではなく、もう一つの大国「エジプトとの軍事同盟」でした。

当時の人々の考えは、現代にも、いやあらゆる時代に共通しているものかもしれません。

「強い国と組めば安心だ」 「武力こそが平和を担保する」

しかし、神ではなく、人間的な力を頼みとする民に、預言者エレミヤは何度も警告しました。

あなたはなぜ軽々しくさまよって、その道を変えようとするのか。あなたはアッスリヤに、はずかしめを受けたように、エジプトにもまた、はずかしめを受ける。

エレミヤ書2章36節(口語訳聖書)

ところが、涙ながらに訴えるエレミヤの声も虚しく、王たちはその声を退けました。もちろん、彼らにとって、エジプトは単なる外国ではなく、「唯一の希望」のように見えていたことも事実です。大国バビロンの脅威が迫る中で、南ユダ王国はエジプトに頼ることが一番「現実的」だと考えたわけです。

結果として、信頼したはずのエジプトとの同盟は機能せず、エルサレムは灰燼に帰します。しかし、まさにここで聖書が示すのは、「目に見える力への依存が、かえって滅びを招く」という逆説的な真理です。

2. 「ファイティングポーズ」の代償

それから数百年後、ローマ帝国に支配されていたイエスの時代。 当時の人々もまた、武力による独立を夢見る「熱心党」の熱狂の中にありました。そして、彼らはローマに対して明確な「ファイティングポーズ」を取りました。

しかし、イエスが示したのは「敵を愛し、平和をつくる者」という全く別の道でした。ですが、これは諦めることを勧めたわけではありません。以前も「第三の道」でもご紹介したように、イエスが示しているのは武力によらない「抵抗」です。つまり、 イエスは、逃げたのではなく、武力という土俵から降りたということです。(参照:『イエスと非暴力 第三の道』

ところが、武力で平和を勝ち取ろうとした勢力は、最終的に紀元70年、ローマの圧倒的な力の前に神殿もろとも崩れ去りました。

なぜ、ユダヤ戦争という悲惨な結末を迎えたのか。その理由の一端は、ローマに対して戦おうとしたことにあります。しかし、このことにおいても、イエスの言葉の真理さが明らかになりました。

 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。」

マタイによる福音書26章52節(口語訳聖書)

剣を取る者は、やはり剣で滅びる道を選んでしまったのです。

3. 私たちは、何に「平和」を託すのか

選挙期間中、街には耳に心地よい言葉が溢れます。「安心」「安全」「繁栄」。それらはどれも正しく、人生を確かなものにしてくれそうに見えます。

しかし、聖書の歴史が私たちに突きつけるのは、「安心を求めて結んだ同盟が、かえって争いの火種になる」という厳しい皮肉です。イスラエルはバビロンに抗うためにエジプトと組み、結果として国を失いました。イエスの時代のユダヤ人もまた、ローマに抗うことで、その足元から崩壊していきました。

選挙で投じられる一票は、単なる政策への賛否ではありません。それは、「私は、目に見える剣(力)を信じるのか、それとも目には見えない平和の君を信じるのか」という、私たちのアイデンティティを問う信仰の告白でもあると言えるのではないかと思います。