「魂が天国に行く」だけでは足りない

「人は死後、どうなるのか」——これはキリスト者にとって、避けて通れない問いです。

この問いに対する伝統的な答えは「魂が天国に行く」というものです。もちろんこれは完全に間違いではありません。しかし近年のパウロ研究において、この答えだけでは決定的に不十分だという主張が、学者たちの間でますます力強くなされるようになっています。

なぜなら、パウロが語る死後の希望の核心は、「魂が天国に行く」ことではなく、「からだが復活する」ことだからです。

これは細かい神学的な違いではありません。

パウロにとって、からだの復活は福音の核心そのものでした。第一コリント15章でパウロはこう言っています。

もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。

コリント人への第一の手紙15章17節(口語訳聖書)

復活がなければ、信仰そのものが成り立ちません。

では、「からだの復活」とは具体的にどういうことなのでしょうか。今回はこの問いをパウロのテキストに沿って見ていきたいと思います。

種と収穫——からだの変容

パウロは第一コリント15章で、復活のからだを「種と収穫」のたとえで説明しています。

おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。 また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。

コリント人への第一の手紙15章36-37節(口語訳聖書)

種は土に蒔かれ、死ぬことで新しい命を生み出します。しかし生まれてきたものは、種とは全く違う姿をしています。小さな種から、豊かな実りが生まれます。

パウロはこのたとえを使いながら、復活のからだの性質を四つの対比で描きます。

死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。

コリント人への第一の手紙15章42-44節(口語訳聖書)

朽ちる↔朽ちない。卑しい↔栄光。弱い↔強い。血肉↔御霊。

現在のからだと復活のからだは、連続性を持ちながらも、質的に全く異なるものです。まさに、種と収穫のように。

「御霊のからだ」とは何か

ここで一つ重要な誤解を解いておく必要があります。

「御霊のからだ(σῶμα πνευματικόν、ソーマ・プニューマティコン)」という表現を聞くと、「非物質的な、霊的な存在」を想像するかもしれません。しかしパウロはそのようなことを言っているわけではありません。

「御霊のからだ」とは、聖霊によって生かされたからだ、聖霊に完全に支配されたからだという意味です。現在のわたしたちのからだは「血肉のからだ」——アダムの命の原理によって動くからだです。しかし復活のからだは「御霊のからだ」——聖霊の命の原理によって完全に動くからだです。

つまり、復活のからだは、霊的な幽霊のような存在ではありません。聖霊によって完全に新しくされた、リアルなからだです。イエスが復活後に弟子たちに触れることができ、食事をすることができたのは(ルカ24:39-43)、この復活のからだのリアルな性質を示しています。

からだの復活と新しい創造

ここで一つ、パウロの終末論における深い洞察に触れておきたいと思います。

からだの復活は、個人の救いの話に留まりません。それは創造全体の刷新とつながっています。ローマ8章でパウロはこう書いています。「被造物も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかることができるからです」(8:21)。

信仰者のからだの贖いと、創造全体の刷新は、切り離せない形で結びついています。C.キャンベルはこの関係をこう説明しています。

The liberation of the children of God will set the renewal of creation into motion, since it is bound to decay until the redemption of their bodies (Rom 8:19–23). The redemption of the bodies of the children of God is likewise grounded in the resurrection of Christ. Thus, though Paul does not explicitly draw the connection, it follows that the resurrection of Christ is the ground for the renewal of the entire created order. His resurrection secures the resurrection of believers, redeeming their bodies, which in turn will signal the liberation and renewal of the creation.

[拙訳]神の子どもたちの解放は、創造の刷新を動かし始めます。創造はローマ8章19〜23節にあるように、神の子どもたちのからだの贖いが来るまで、滅びの束縛から逃れられずにいるからです。神の子どもたちのからだの贖いもまた、キリストの復活に基づいています。したがって、パウロが明示的にこのつながりを示していないとしても、キリストの復活が創造物全体の刷新の根拠であることが導き出されます。キリストの復活は信仰者の復活を確かなものとし、彼らのからだを贖います。そしてそれが、創造の解放と刷新を告げることになるのです。

Constantine R. Campbell, Paul and the Hope of Glory: An Exegetical and Theological Study (Grand Rapids, MI: Zondervan Academic, 2020), 389.

これは驚くべき洞察ではないでしょうか。信仰者のからだの復活は、単に個人が救われるという話ではありません。それは創造全体が解放される、宇宙規模の出来事の一部だということです。

わたしたちのからだの復活が、創造の刷新の「引き金」になる——パウロはそのように考えていました。

「同じからだ」が「違うからだ」になる

ここでもう一つ重要な問いがあります。復活のからだは、現在のからだと同じものなのでしょうか。それとも全く別の新しいものなのでしょうか。

パウロの答えは「連続性と不連続性の両方」です。

種のたとえに戻りましょう。麦の種から生まれた収穫は、種と「同じもの」ではありません。しかし種と「全く無関係なもの」でもありません。種の中にすでに、収穫の可能性が宿っていました。

復活のからだも同様です。それは、現在のからだと連続性を持ちながら、質的に全く異なるものに変容します。この点は、イエスの復活のからだが、弟子たちに認識されながら(連続性)、壁を通り抜けることができた(不連続性)ことからも確認できます。

この連続性は、わたしたちの信仰生活においても深い意味を持ちます。からだは「魂の乗り物」に過ぎず、死んだら捨てられるものではありません。わたしたちのからだは、やがて復活して神の栄光を担う器です。だからこそ、今このからだをどのように使うかが重要だと言えるわけです。

ぼくどくメモ

「魂が天国に行く」という希望と、「からだが復活する」という希望は、似て非なるものだと思います。

それと言うのも、前者は「この世界からの脱出」の希望ですが、後者は「この世界の刷新」の希望だからです。

パウロが語る復活の希望は、この世界を捨てて別の場所に行くことではありません。朽ちるからだが朽ちないからだに変容し、傷ついたこの世界が刷新されて、神の栄光が満ちる——そのような希望です。

これはわたしたちの今の生き方にも影響します。からだを大切にすること、この世界を大切にすること、人間関係を良好なものとすること——これらはすべて、やがて来る刷新の先取りとして意味を持ちます。

そのように考えると、第一コリント15章58節のパウロの言葉の意味が鮮明に浮かび上がってくるように感じます。

「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」

からだの復活を信じるからこそ、今日のからだの歩みが意味を持ちます。

参考文献:Constantine R. Campbell, Paul and the Hope of Glory: An Exegetical and Theological Study (Zondervan Academic, 2020)