杖?むち?

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  聖書の中で「羊飼い」というモチーフがよく見られます。例えば、ルカの福音書にも「失われた羊」という有名なたとえ話があります(ルカ15:1-7)。これは、100匹の羊の中の1匹でも迷い出てしまったらなら、羊飼いはその1匹のために必死で探し出す話です。ここで「羊飼い」に例えられているのがイエス・キリストです。現代となっては、あまり見かけない羊飼いですが、当時の人々には馴染みやすいモチーフだったのでしょう。「羊飼い」というモチーフから様々なイメージが浮かび、そのメッセージがより鮮明に聴衆には届いたことだろうと思います。

 羊飼いが用いる道具の代表格は「杖」です。羊飼いは、杖で羊の群れを導きます。羊たちが間違った方向に進まないように、杖で牧する必要がありました。ここで、詩篇2篇を例に、「杖」という言葉の意味について考えてみたいと思います。

 詩篇2篇は、一般的に「王の詩篇」というジャンルに分類されます。「王の詩篇」というジャンルは、簡単に言えば、その詩篇が「王」にまつわる内容だからです。詩篇2篇では、イスラエルの王のあるべき姿がうたわれています。特にこの2篇は、王の即位式でうたわれていたものだと考えられています。いずれにしても、このような「王」の姿は、イスラエルの王のあるべき姿であると同時に、究極的な王であるイエス・キリストをも指し示しています。言い換えるならば、詩篇2篇でうたわれるまことの王のあり方を実現したのがイエス・キリストであったとも言えるかと思います。

 この詩篇2篇の中に次のような一節があります。詩篇2篇9節。

あなたは鉄の杖で彼らを牧し 陶器師が器を砕くように粉々にする。

『新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)

世界を治めるという務めを与えられた王は、「鉄の杖」で民を牧します。この王の姿には「羊飼い」のモチーフが見られます。羊飼いが使うのは「杖」ですが、ここでは単なる杖ではなく「鉄の杖(rod of iron)」と言われています。この言葉からは、時に厳しく牧する印象を受けます。後半の「陶器師が器を砕くように粉々にする」という言葉からも、王には厳しい側面があることは確かです。このことは否定の余地が全くありませんが、別の角度からも考えてみることで、少しだけ異なるニュアンスで、そしてより豊な意味を理解することができます。

 この「杖」と訳されている言葉は、ヘブル語で「שֵׁבֶט(シェベット)」と言います。この言葉は「杖」だけではなく「むち(whip)」と訳されることがあります。もちろん、杖もむちも違うのはその「硬さ」くらいで、羊飼いがどちらを使おうが役目は同じだと言えるかもしれません。ですが、「むち」という言葉には、親が子どもに「愛のむち」を加えるような、教育的な側面があると考えられます。

 シェベットが「むち」と翻訳されている箇所の例の一つに箴言13章24節が挙げられます。

むち(シェベット)を控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者は努めてこれを懲らしめる。

『新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)

ここでは明らかに、親が我が子を愛するが故に、時に厳しく懲らしめる(むちをうつ)ことが言われています。もちろん、これは文字通りむち打ちにするということではありません。要するに、「むちを打つ」という言葉には、教育的な側面が含まれているということです。

 詩篇2篇では、王が「鉄の杖」で民を牧する姿がありました。それは、時に我が子に厳しくする父親の姿に重なるものでもあります。自分が間違っている時に、誰よりも近くで厳しくも愛をもって戒めてくれるのが親の存在であるように、イエス様も私たちを愛のむちによって懲らしめることがあります。ですが、それは私たちが分別をわきまえ、成長するためには必要なものだと言えます。とは言え、そのことに気がつくのは、子供が大きくなって親のありがたみがわかるのと同じように、ずっと先のことかもしれません。

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