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神の全能性:キリスト教神学における概念、歴史的展開、および哲学的課題

はじめに

キリスト教神学において、神の全能性(Omnipotence)は、全知性(Omniscience)、遍在性(Omnipresence)と並び、神の超越的かつ無限な性質を強調する核心的な属性の一つです。これらの「オムニ(omni-)」がつく属性は、神が「すべてのものをすることができ、すべてを知っており、すべての場所に存在する特性」を意味します。全能性は、神がご自身と被造物を完全に支配していることを意味し、神の主権の根幹をなす概念です。聖書全体を通して、神がご自身の意志のままに何でも行い、不可能はないことが示されています。

ですが、全能性という概念は、単に「何でもできる」という無制限の力として理解されるわけではありません。神学的な定義では、神の全能性は「神の性質と矛盾しないすべてのことを行う完璧な能力」として説明されることがあります。この「神の性質と矛盾しない」という条件は、神の全能性の範囲を限定する上で極めて重要です。神の力は、その本質的な善性、真実性、聖性といった他の完全な属性と不可分に結びついているため、神がご自身の性質に反する行為(例えば、罪を犯す、嘘をつく)を行うことはできないと考えられます。このような行為というのは、神の全能性を損なうものではなく、むしろ神の完全性の証しと言えます。この理解は、神の全能性という概念が、絶対的で無制限な力と、神の本質的な性質との間に内在する緊張関係を伴うことを示しています。この緊張関係は、後世の神学的・哲学的議論、特に悪の問題や全能の逆説といった難問に取り組む上での出発点となりうるものです。

この記事では、キリスト教神学における神の全能性の概念を、その聖書的基盤から初期教父、スコラ哲学、宗教改革期の主要な思想家たちの解釈を経て、現代神学における再解釈に至るまで、歴史的かつ哲学的に概観し、考察しています。

第1章:神の全能性の本質と定義

聖書的基礎と初期の理解

聖書において「全能」という名詞は直接的に見られませんが、その概念は神の様々な名称や記述に内在していると言えます。例えば、旧約聖書の「エル・シャダイ」(全能の神)や「ヤハウェ・ツェバオト」(万軍の主)といった名称は、神の超越的な力と支配を強調しています。これらの名称は、神が創造主として天地万物を創造し、自然法則を確立・維持し、歴史の摂理を司り、そして人類の救済の御業を行う、その圧倒的な力を表現したものと言えます。

聖書には「全能」という特定の用語が明示的に用いられていないにもかかわらず、その概念が神の多様な名称や行動を通して遍く示されていることは、重要な示唆を与えます。これは、聖書の著者が神を本質的に全能であると認識していたものの、その表現は抽象的な哲学的範疇ではなく、物語や比喩、神の具体的な働きを通して行われていたことを物語っていると言えるでしょう。このことから、神の全能性に関する神学的な形式化は、後の時代に哲学的思考の影響を受けながら、聖書に内在する理解を体系的に整理し、明確な属性として位置づける過程で発展したと考えられます。すなわち、この発展は、聖書的叙述から、より体系的な神学的分類への移行を示すものであり、神学が啓示された真理を理性的に探求する営みであると言えるでしょう。

全能性、全知性、遍在性の相互関連性

キリスト教神学において、全能性(all-powerful)、全知性(all-knowing)、遍在性(all-present)は相互に深く関連する神の属性です。

これらの属性の相互関連性は、神の主権を包括的かつ一貫して理解する上で不可欠だと言えます。なぜなら、神の力が普遍的に、かつ目的に沿って用いられることは、神がすべてを知っていることを意味し、この普遍的な力と知識があるからこそ、神はあらゆる場所に存在すると結論付けられるからです。

しかし、裏を返せば、これらの定義が「再定義」される場合、神の全能性についても再解釈の必要が出てくると言えます(例えば、プロセス神学における未来に関する全知性の限定など)。それは必然的に他の属性の理解、ひいては神学体系全体の整合性に影響を及ぼすことにもなるかもしれません。

神の性質と論理的必然性による制限

キリスト教神学における神の全能性は、「論理的に可能なことなら何でもできるが、論理的に不可能なことはできない」と一般的には理解されます。つまり、神の力が神自身の本性に矛盾する行為(例:罪を犯す、嘘をつく、死ぬ、約束を破る)や、論理的に自己矛盾する概念(例:四角い円を作る、持ち上げられない石を作る)はできないということです。

しかし、これらの「できないこと」は、神の力の欠如ではなく、むしろ神の完全な本性と論理的整合性の反映であるとされます。神が論理的に不可能なことを行えないという考えは、神の一貫性と完全性を維持するための重要な哲学的手段でもあります。なぜなら、もし神が論理的に不可能なことを行えるとしたら、それは現実と理性の根幹を揺るがし、神学的言説そのものが無意味になってしまうからです。この「制限」は、神の弱さではなく、むしろ「力」が合理的宇宙において真に何を意味するのかを定義するものだと言えます。

デカルトのような一部の哲学者は、神は論理的に不可能なことさえもなし得ると主張したようですが、これは主流の神学・哲学では首尾一貫しないとして拒否されています。神の全能性の範囲を「論理的に可能なこと」に限定することで、神学者は神の属性に対する哲学的パラドックスに対処し、神の合理性と完全な性質との整合性を維持しています。これは、キリスト教神学が哲学的論理と対話を試みてきた歴史であるとも言えます。

第2章:歴史的視点から見る全能性の発展

初期教父の貢献

キリスト教神学における神の全能性の概念は、初期教父たちの思索を通じて、その基礎が築かれてきました。

  • アレクサンドリアのクレメンス (Clement of Alexandria, 150-215 CE): 神の力は神の意志によって表現され、神の「裸の意志(bare volition)」が宇宙の創造であったと考えます。彼の見解では、神の力は時間的な世界の制約を受けず、神にできないことは何もないとされました。
  • オリゲネス (Origen, 184-253 CE): 神は行動する力と意志の両方を持つが、理性や神の性質に反することはできないと主張しました。神は嘘をついたり、罪を誘惑したりすることはできないが、これらは神の全能性を妨げない自然な制限と見なされます。彼は「全能者にとって不可能なことは何もない」と強調しつつも、それが神に関する不合理な肯定につながることを警告しました。また、神の全能性が神の善性や知恵といった他の属性と調和して理解されるべきだと考えました。
  • アウグスティヌス (Augustine of Hippo, 354-430 CE): 西方教会最大の教父であり、神を全知、全能、遍在、道徳的に善なる存在、そして「無からの創造者」(ex nihilo)として捉えました。
    • アウグスティヌスは悪について、善の欠如または歪曲と定義し、悪それ自体は実体として存在しないと主張します。悪は善がなければ成り立たない寄生的な性質のものだということです。したがって、悪の起源は、神が人間に与えた自由意志の濫用(原罪)にあると考えました。神は自由と強制を両立させることはできないため、人間が常に善を選ぶように強制することはできなかったという理解です。
    • アウグスティヌスの神学的革新、特に「無からの創造」と「悪の欠如説」は、神の全能性と善性を、マニ教のような二元論的挑戦や悪の問題に対して強力に擁護する役割を果たしました。アウグスティヌス自身がかつてマニ教徒であった経験から、彼は善と悪が対等な実体として存在するという考えの限界を深く認識していたようです。神が「無から」世界を創造したと主張することで、彼は神の絶対的な力と、いかなる既存の物質や敵対する悪の力にも制約されない独立性を強調しました。また、悪を善の欠如と定義することで、神が悪の存在に直接的な責任を負うことを避け、その責任を人間の自由意志の誤用へと転嫁しました。この枠組みは、後のキリスト教神学における悪の問題への対応の基礎を築き、神の全能性と善性を両立させるための重要な論理的基盤を提供したと言われています。

スコラ哲学における精緻化

中世のスコラ哲学は、信仰と理性の調和を追求し、神の全能性に関する概念をより精緻に分析していきます。

  • アンセルムスと存在論的証明: カンタベリーのアンセルムス(1033-1109)は、「知解を求める信仰」(fides quaerens intellectum)をモットーに掲げたことで知られています。彼は神の存在を論理的に証明しようとする「存在論的証明」を提唱しました。その証明は、「神とは、それ以上大きなものが考えられないもの(that than which nothing greater can be conceived)」と定義し、もしそのような存在が思考の中にのみ存在し、現実には存在しないとしたら、現実に存在する方がより完全であるため、矛盾が生じると論じました。ゆえに、神は必然的に存在すると結論付けます。この証明は、神の全能性を、単なる力だけでなく、存在論的な完全性と結びつけるものでした。
  • トマス・アクィナスと論理的必然性: トマス・アクィナス(1225-1274)は、スコラ哲学を大成した神学者であり、アリストテレス哲学をキリスト教信仰に調和させようと試みた人物です。彼は神の全能性を、「論理的に可能なことなら何でもできるが、論理的に不可能なことはできない」と定義します。例えば、「四角い円」を作ることは、神の全能性の範囲外であり、これは神の力の欠陥ではなく、概念そのものが矛盾しているためであると説明しました。この立場は、神の全能性が、論理的整合性と神自身の本質的な完全性によって限定されるという理解を確立することになりました。
  • ドゥンス・スコトゥスと意志の優位: ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(1266頃-1308)は、トマス・アクィナス後のスコラ学において重要な位置を占める哲学者です。彼は、知性よりも意志の優位を説き、神の全能性と自由意志を強調しました。スコトゥスは、神の自由が論理や必然性によって制約されないと主張し、神が世界をいかなる方法でも創造できたと論じます。この見解は、神の行動が人間の理解を超えているが、それでも神の神聖な性質と矛盾しないという点で、理性と信仰の間の調和を維持しようとしたものです。彼の思想は、近代の主体主義のルーツの一つとも言われています。
  • オッカムと唯名論: オッカムのウィリアム(1287頃-1347)は、スコトゥスの思想を受け継ぎ、唯名論(nominalism)の先駆者となった人物です。彼は、普遍的な概念は実在せず、単なる名前(言葉)に過ぎないと主張し、個々の具体的なものだけが存在すると考えました。神学と哲学を明確に区別し、信仰の真理と理性の真理は必ずしも一致する必要はないとしました。オッカムは「神の全能」を重視しつつも、自然を理解するには経験と論理が大切だとし、実際の観察を重視します。彼の思想は、宗教的権威から独立した科学の発展への道を開くことになりました。オッカムの唯名論は、神の全能性を理解する上で、理性による証明の限界を強調し、神学的真理へのアクセスは信仰と啓示によってのみ可能であるという見解を促進しました。

宗教改革期の再考

宗教改革期において、マルティン・ルターとジャン・カルヴァンは、神の全能性と主権に関する理解を深め、その教義をそれぞれの神学体系の中心に据えます。

  • マルティン・ルターと「奴隷意志論」: ルター(1483-1546)は、神の全能性がすべての出来事の究極的な原因であると信じ、人間の自由意志を否定しました。彼は、人間は救いのために何ら貢献できず、ただ神の恩寵と憐れみによってのみ救われると主張します。ルターにとって、神の全能性は「神がすべてのものにおいて力強く働く活動的な力」であり、神は受動的な力を持たないとされました。また、神が罪人をも罰する「怒りの神」であると同時に、キリストを通してご自身を現す「愛の神」であると説きました。そして、人間の自由意志を「盲目」であるとし、罪の自覚には律法が必要であり、罪を取り除く努力は無意味であると主張します。
  • ジャン・カルヴァンと「予定説」: カルヴァン(1509-1564)は、ルターと同様に神の全能性と主権を強調しましたが、その度合いはさらに強いものだと言えます。彼は神の全能性を、すべての出来事が神によって定められているという「予定説」の主要な前提としました。カルヴァンによれば、魂の救済は人間の意志や行動とは無関係に、あらかじめ神によって決定されていると考えます。また、神が人間の堕落さえもご自身の意志によって定めた「堕落前予定説」(supralapsarianism)を主張しました。。ルターが神の愛を強調したのに対し、カルヴァンは神の力と意志、そして義をより根本的なものと見なしました。

第3章:哲学的課題と現代神学の応答

神の全能性という概念は、キリスト教神学の歴史を通じて、多くの哲学的課題に直面してきました。特に「悪の問題」と「全能の逆説」は、この属性の理解を深める上で重要な役割を果たしています。

全能の逆説

全能の逆説は、全能という言葉の特定の理解から生じる一連のパラドックスです。

  • 「石のパラドックス」とその論理的構造: 最もよく知られた全能の逆説は「石のパラドックス」です。「神はご自身が持ち上げられないほど重い石を作ることができるか?」という問いは、以下のようなジレンマを提示することになります。
    • もし神がそのような石を作れるなら、その石を持ち上げられないため、神は全能ではない。
    • もし神がそのような石を作れないなら、そのような石を作れないため、神は全能ではない。
    • いずれにしても、神は全能ではないという結論が導かれるように見える。
  • 伝統的キリスト教神学の応答: 伝統的なキリスト教神学、特にトマス・アクィナス以降の見解は、この逆説に対して、神の全能性は論理的に不可能なことには及ばないという論点で応答します。彼らは、「持ち上げられない石」という概念は、「四角い円」や「結婚している独身者」と同様に、自己矛盾した概念であり、意味をなさないと主張します。したがって、神がそのようなものを作れないのは、神の力の欠陥ではなく、その行為自体が「可能なこと」の性質を欠いているためであると結論づけられます。この応答は、神の全能性が、理性と論理の枠内で理解されるべきであり、神はご自身の本質や論理的整合性に反する行動は行わないという、神学の根本的な前提を維持していると言えます。

悪の問題

悪の問題は、全能(all-powerful)、全善(all-good)、全知(all-knowing)の神の存在と、世界における悪と苦しみの存在をどう調和させるかという哲学的問いです。

  • 論理的悪の問題と証拠的悪の問題:
    • 論理的悪の問題: これは、全能、全知、全善の神と悪の存在が論理的に両立不可能だという主張です。エピクロスに帰せられる有名な定式化は、「神は悪を防ぐ意志があるが、できないのか?ならば彼は無力だ。できるが、意志しないのか?ならば彼は悪意がある。できるし、意志もあるのか?ならばなぜ悪が存在するのか?」というものです。
    • 証拠的悪の問題: これは、悪の存在が神の存在と論理的に矛盾しないとしても、世界に存在する悪の量と種類が、全能、全知、全善の神の存在を極めて蓋然性の低いものにするという主張です。
  • 弁神論と神義論: 悪の問題への応答は、伝統的に「弁神論」と「神義論」に分類されます。弁神論は、神と悪の存在が論理的に両立可能であることを示す試みであり、神義論は、悪が存在する理由を説明し、神の義と善性を擁護する試みです。
  • 自由意志弁護論: 自由意志弁護論は、悪の存在を全能、全知、全善の神と調和させようとする哲学的議論です。この弁護論は、悪の存在を人間(または天使)による自由意志の誤用によるものとし、神の直接的な原因や無関心に帰するものではありません。アウグスティヌスは、自由意志が道徳的責任に不可欠であり、悪はその誤用から生じると主張しました。現代の主要な提唱者であるアルヴィン・プランティンガ(Alvin Plantinga)は、神が常に善を選ぶ自由な被造物を持つ世界を創造することは、自由意志の性質上、不可能であったかもしれないと論じています。この見解は、真の道徳的行為には、善と悪を選択する自由が必要であるという考えに基づいています。他方で、全能の神は常に善を選ぶ被造物を創造できたはずだと主張し、自由意志の概念と全能の神の間に矛盾があると批判されることもあるようです(例:J.L. Mackie)。
  • プロセス神学とオープン神論: 現代神学では、神の全能性に関する伝統的な理解を再解釈することで、悪の問題に対処しようとする動きがあります。
    • プロセス神学: この神学は、神の力が強制的なものではなく、説得的なものであると主張することで、全能性を再解釈する。プロセス神学では、宇宙は自由意志を持つ存在によって特徴づけられ、神は出来事や個人の系列を完全に制御することはできないとされます。その代わりに、神は可能性を提供することで、普遍的な自由意志の行使に影響を与えます。これは、神がすべてにおいて意志を持つが、起こるすべてのことが神の意志であるわけではないことを意味します。悪と苦しみは、世界の複雑性と自由の側面として理解され、神によって直接意図されたものではないとされます。
    • オープン神論: プロセス神学から派生したオープン神論は、神の未来に関する知識と計画が人間の行動に条件付けられていると主張します。全知であるにもかかわらず、神は人間が未来に自由に何をするかを知らないとされ、全能であるにもかかわらず、神は人間がご自身の創造物の統治と発展に自由に協力することを招くことを選択したため、人間が神の希望を挫く可能性を許容していることになります。この見解は、神が人間との真に愛に満ちた、相互的な関係を望んでいるため、未来が決定されているのではなく「開かれている(オープン)」と考えます。したがって、悪の問題に対しては、神がすべての悪を防がないのは、愛の条件を満たすために、すなわち、自由が与えられているためだと言えます。
      オープン神論については、下記のサイトもご参照ください。(https://1co1312.wordpress.com/2016/04/09/オープン神論とは何か(1)/

まとめ

キリスト教神学における神の全能性の概念は、聖書に深く根ざしつつも、歴史を通じて哲学的探求と対話の中でその理解が深められてきました。初期の教父たちは、神の全能性を創造主としての絶対的な力と、神の性質に矛盾しない範囲での能力として捉え、アウグスティヌスは「無からの創造」と「悪の欠如説」を通じて、神の善性と全能性を擁護する強固な枠組みを確立しました。スコラ哲学は、アンセルムスの存在論的証明やトマス・アクィナスの論理的必然性による全能性の限定、ドゥンス・スコトゥスやウィリアム・オブ・オッカムの意志の優位と唯名論といった議論を通じて、神の全能性の概念をさらに精緻化しました。宗教改革期には、ルターとカルヴァンが神の絶対的な主権と予定説を強調し、人間の自由意志の役割について異なる見解を示しました。

これらの歴史的発展は、神の全能性という概念が、単なる「何でもできる」という素朴な理解を超え、神の他の属性(全知、遍在、善、義など)や、論理的整合性、そして人間の自由意志との関係において、複雑かつ多層的に考察されてきたことを示しています。特に、全能の逆説や悪の問題といった哲学的課題は、神の全能性の定義とその範囲を明確にする上で不可欠な触媒ともなっています。伝統的な神学は、神の全能性が論理的に不可能なことには及ばないという立場を堅持することで、これらのパラドックスに対処してきたと言えます。その一方で、現代神学においては、プロセス神学やオープン神論のように、神の全能性を「強制的な力」ではなく「説得的な力」として再解釈することで、悪の問題や人間の自由との調和を図ろうとする新たな試みがなされています。これらの現代的なアプローチは、伝統的な理解に挑戦し、神と被造物の関係性をより動的で相互的なものとして捉える可能性を提示していると言えます。

最後に、神の全能性に関する議論は、単なる抽象的な神学論争に留まりません。それは、悪や苦しみが満ちる世界で、信仰者がいかに神の正義と愛を理解し、希望を見出すかという実存的な問いと深く結びついています。神の全能性に関する理解の進化は、キリスト教神学が常に、聖書の啓示と、時代ごとの哲学的・科学的知見、そして人間の経験との対話を通じて、その教義を深め、再考し続けてきた証拠でもあります。これからも、神の核心的な属性に関するこの探求は、信仰と理性の間の豊かな対話を促進し続けることになるのではないでしょうか。

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