ヨハネの福音書において、特徴的なフレーズの一つに「生ける水」(4:10, 11, 7:38)があります。今回注目するのは、7章に記されている仮庵の祭りでのイエスの言葉です。なぜ、仮庵の祭りで生ける水について語られたのでしょうか。
ユダヤ人の三大祝祭の一つである仮庵の祭りには”the critical ritual of the water-drawing ceremony”(水汲みの儀式)が関係していたと言われています。初めに、Klinkのコメントを参照します。
The connection is likely to be rooted in the critical ritual of the water-drawing ceremony, including the procession from the pool of Siloam to the temple in which both people and priests marched, after which the priests would pour out water and wine at the base of the altar.31 The water-drawing ceremony was not only part of the celebration of the Feast but was also connected to the provision (and securing) of rain. Since the Feast directly precedes the rainy season, this concluding ceremony was an expression of dependence on the divine miracle of rain—an essential component of life itself.
31 Keener, John, 1:722.
[拙訳]この関係は、シロアムの池から神殿への、人々や祭司たちが行進する水汲みの儀式という重要な儀式に基づいている可能性が高い。その後、祭司たちは祭壇に水とぶどう酒を注ぎ出した。この水汲みの儀式はその祭り〈訳注:仮庵の祭り〉の一部であるだけでなく、雨の供給(および確保)とも結びついていた。祭りが雨季の直前に位置するため、この締めくくりの儀式は、命そのものに不可欠な要素である雨という神のみわざへの信頼を表現するものであった。
Edward W. Klink III, John, ed. Clinton E. Arnold, Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament (Grand Rapids, MI: Zondervan, 2016), 374.
ユダヤの伝統(『ミシュナ』など)では、イエスの時代の仮庵の祭りの際、祭司がシロアムの池で水を汲んだものを、神殿の祭壇に注ぎかけるという儀式が成立していたようです。
仮庵の祭りと「水」の関係については、例えば、ゼカリヤ書でこのように言われています。
16 エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭を守るようになる。
ぜカリヤ書14章16-19節(口語訳聖書)
17 地の諸族のうち、王なる万軍の主を拝むために、エルサレムに上らない者の上には、雨が降らない。
18 エジプトの人々が、もし上ってこない時には、主が仮庵の祭を守るために、上ってこないすべての国びとを撃たれるその災が、彼らの上に臨む。
19これが、エジプトびとの受ける罰、およびすべて仮庵の祭を守るために上ってこない国びとの受ける罰である。
ここで言われていることは、やがて国々が仮庵の祭りを守るようになるということであり、そして、それを守らないならば「雨が降らない」ということです。ここに、仮庵の祭りと水の密接な関係を見ることができます。
そして、この仮庵の祭りと「水」の関係が、新約聖書において描写されているのが、ヨハネの福音書7章です。
37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
ヨハネの福音書7章37-38節(口語訳聖書)
38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
仮庵の祭りのクライマックスで、イエスは「水」について話されました。これは、唐突に何の脈絡もないことを言われたのではなくて、仮庵の祭りという文脈における重要なテーマに沿ったものでした。それが、すなわち「水」です。
そして、この水とは何か、『ヨハネ』はこう付け加えています。
39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
ヨハネの福音書7章39節(口語訳聖書)
冒頭でも触れたように、ヨハネの福音書において「生ける水」というテーマは4章にも見られます。そこには、井戸のそばにいたサマリア人の女性とのやり取りが記されています。
13 イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。
ヨハネの福音書4章13-14節(口語訳聖書)
14 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
この際、この女性とイエスが話していた会話の内容はどのようなものかと言えば、それは礼拝する場所に関するものでした。
23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
ヨハネの福音書4章23節(口語訳聖書)
礼拝の場所というのは、要するに神殿を指しています。当時の人々は、この神殿においてのみ神を礼拝することができました。その伝統は遡れば、幕屋に通じるものです。
しかし、ヨハネの福音書2章に記されているように、イエスは当時の神殿体制を批判しました。なぜなら、その礼拝に招かれている人々が限定されていて、本来の目的を果たしていなかったからです。一部の宗教指導者たち、上層階級の者たちが特権を乱用し、病気の者、罪人と呼ばれた者たちが、礼拝に参加することができず、除外されていた現実がありました。しかし、福音書を読めば明らかなように、イエスはむしろ、そのような社会から除外された者たちのもとに出向かれました。
ここに神を礼拝する神殿の決定的な方向転換を見ることができます。つまり、それまでは動くことのなかった神殿が、イエスによって「歩く神殿」となったのです。神のもとに招かれず排除されていた人たちの元に、神の御子自らが出向き、礼拝の道を開かれたのです。
こうして、神を礼拝することが、イエスによって、また更には『ヨハネ』の補足によれば、「御霊」によって、すべての人に開かれることになります。
そして、このことを言い換えたものが、「生ける水」です。神を礼拝すること、それは神と繋がっているということでもあります。そのように、常に神と繋がっているならば、その人のうちから生ける水が川のように流れてきます。このことは、とりわけ、社会から除外されていた人たちにとっては大きな恵みであったことでしょう。誰からも相手にされず、価値を認められず、生きていた人にとって、主イエスによって、また御霊によって与えられる生ける水は、その人を生かします。
このことは、現代に生きる私たちにも無関係ではありません。誰であっても、時に、暗闇に覆われたような絶望を感じることがあるものです。生きる意味や進むべき方向を見失うということが誰にでもあるのではないでしょうか。しかし、ここで約束されていることは、イエスを信じる者には、生ける水が川となって流れ出るということです。
それでは、この生ける水が川のように流れるとはどのようなイメージでしょうか。エゼキエル書には、新しい神殿がまさに水に満たされる様が描かれています。
1 そして彼はわたしを宮の戸口に帰らせた。見よ、水の宮の敷居の下から、東の方へ流れていた。宮は東に面し、その水は、下から出て、祭壇の南にある宮の敷居の南の端から、流れ下っていた。
エゼキエル書47章1-12節(口語訳聖書)
2 彼は北の門の道から、わたしを連れ出し、外をまわって、東に向かう外の門に行かせた。見よ、水は南の方から流れ出ていた。
3 その人は東に進み、手に測りなわをもって一千キュビトを測り、わたしを渡らせた。すると水はくるぶしに達した。
4 彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水はひざに達した。彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水は腰に達した。
5 彼がまた一千キュビトを測ると、渡り得ないほどの川になり、水は深くなって、泳げるほどの水、越え得ないほどの川になった。
6 彼はわたしに「人の子よ、あなたはこれを見るか」と言った。それから、彼はわたしを川の岸に沿って連れ帰った。
7 わたしが帰ってくると、見よ、川の岸のこなたかなたに、はなはだ多くの木があった。
8 彼はわたしに言った、「この水は東の境に流れて行き、アラバに落ち下り、その水が、よどんだ海にはいると、それは清くなる。
9 おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きている。
10 すなどる者が、海のかたわらに立ち、エンゲデからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。
11 ただし、その沢と沼とは清められないで、塩地のままで残る。
12 川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。
序盤から中盤にかけて、神殿から溢れ出る水嵩がどんどん高くなっている様子が伝わってくるのではないでしょうか。くるぶしから、膝に。膝から腰に。そして最後は、泳げるまでに水は満たされ、川となります。主イエスを信じる者、聖霊が与えられた者、すなわち神を礼拝する者のうちから流れ出る生ける水の川。聖書全体を通して考えると、よりそのイメージが浮かび上がってくるように思います。そのことを公に宣言する場として、仮庵の祭りが選ばれたということにも深い意味があると言えるのではないでしょうか。
