はじめに:目の前の現実と、聖書の「暴力」
現在、世界で起きている情勢を直視するとき、私たちは一つの冷徹な現実に突き当たります。それは「武力こそが、平和を維持するために必要なのではないか」という問いです。言葉で平和を語ることが、あまりにも空虚な「綺麗事」に思えてしまう。そんな無力感の中に私たちはいます。
聖書を読み進める中で、戸惑いを覚えることがあります。それは、旧約聖書に記されたイスラエルの戦いや、詩篇83篇に見られるような激しい復讐の祈りなど、武力を肯定しているように思われる記述です。これらをどう受け止めるべきでしょうか。確かに、聖書の出来事は「歴史的事実ではない」とスルーする考え方もあるのかもしれません。そんな古代の文書を読んでも意味がないと思われるかもしれません。しかし私は、そこに刻まれた「人間の歴史が生み出してきた罪の現実」と向き合うことから始めたいと思うのです。
1. 武力は肯定されているのか
聖書に武力の記述があるからといって、神が暴力を肯定されたと結論づけるのは早計かもしれません。むしろそれは、当時の限界ある人間が、神をそのように理解せざるを得なかった、という記録であると言えるのではないでしょうか。
荒野のただ中で絶滅の危機に瀕していた民にとって、神の正義とは「戦いに勝利すること」以外の形では想像し得なかったということ。神は、彼らの未熟さや文化的な文脈に合わせ、その「限界ある理解」を通してもなお、ご自身を示し続けられたのだと感じます。
2. 武力がもたらす「沈黙」という名の先延ばし
現実的な視点に立てば、武力は抑止力として機能し、一時的な平穏をもたらします。しかし、それは本当の意味での解決だと言えるのでしょうか。
武力が作れるのは、相手を恐怖で縛る「沈黙」に過ぎません。それは問題を根本から解決しているのではなく、憎しみの噴出を先延ばしにしているだけだと言わざるを得ないのではないでしょうか。圧倒的な力で押さえつけられた沈黙の下では、解決されない不条理がマグマのように溜まり続け、いつかまた別の暴力となって噴き出します。
3. 「無関心」を越えて、祈る者へ
「平和」について考えるとき、最大の障壁は「敵意」だけではありません。それ以上に手強いのが「無関心」であるように思います。 私たちは皆、日々の生活や自身の苦しみで精一杯であり、他者のことまで気にかけていられない「現実」の中にいます。相手を視界から消してしまう「無関心」の防壁の中で、平和のためにエネルギーを割くことは、とてつもなく「骨の折れる作業」です。
だからこそ、イエス・キリストが語られたこの言葉が重く響きます。
44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
マタイの福音書5章44節(口語訳聖書)
「祈る」とは、単なる感情的な事柄ではありません。それは、自分のことで精一杯な檻の中から、あえて相手(敵や無関心な対象)を「同じ人間」として理解するという、能動的な意志に基づく取り組みでもあります。この言ってしまえば、「骨の折れる」祈りこそが、平和をつくる第一歩になるのだと思います。
4. 聖書が提示する「非効率なリアリズム」
イエスが「剣をさやに収めなさい」(マタイ26:52)と言われたのは、単なる理想主義からではありません。暴力がさらなる暴力を生むという「非効率な現実」を見抜いておられたからです。
聖書が語る「平和(ヘブライ語で「シャローム」)」は、単に「戦いがないこと」ではなく、関係性の回復を指します。 そのために、祈ることから始めること。これは一見すると、遠回りに見えます。しかし、憎しみの連鎖を終わらせるという意味では、敵のために祈るという困難な道こそが、根本的な問題解決であり、最も「徹底したリアリズム(現実主義)」に基づいた道だと言えるのではないでしょうか。
終わりに:模索し続ける勇気
確かに、聖書には、現代的な感覚とはマッチしない、暴力を肯定しているとも取れるような箇所が散見されます。ですが、それらを不都合な記述として目をそらすのではなく、人間の罪深い歴史と限界を直視し、そこから這い上がるための手がかりを探すこと。 そのような姿勢が、過去の人間の過ちから学ぶ上で必要不可欠なのではないかと思います。
「言葉で平和を作る」ことは、今の世界では無力に見えるかもしれません。それでも、武力に頼らない平和の作り方を聖書から学び、模索し続けたいと、ますます武力が台頭してくる時代にあって思わされています。
そして、そのような祈りから始まる「骨の折れる歩み」こそが、暴力が支配する世界に対する、ささやかな、しかし確かな「抗議」になると信じています。
