神学生の時に聞いた言葉の中で、今も強く印象に残っているものがあります。それは、「もし自分が、神学的に全く新しい発見をしていると思った時には、まず気をつけた方がいい」という警告です。

そもそも、神学には途方もない時間の積み重ねと歴史があります。それを一神学生が簡単に覆せるはずがないという、ある意味での「謙虚さ」を教える言葉だったのだと思います。

もちろん、これは「神学はすでに全て解明されているから、研究は無駄だ」という意味ではありません。ただ、自分だけが特別に何かを発見したと主張することには、慎重でなければならないのは確かです。

研究の積み重ねという「繋がり」

神学校で学んでいた頃、論文を書くプロセスを通じて教わったことも、このことをよく表しているように思います。 論文を書く際、まずはこれまでの膨大な研究の蓄積を丁寧にたどることが求められます。先人たちがどのような問いを立て、どのように議論してきたのか、その足跡を誠実に追っていく作業です。

そうした地道な積み重ねを経て、ようやく自分の視点や「味」を少しだけ添えることができる。本当の意味で新しい知見を提示するということが、いかに気の遠くなるような蓄積を必要とするものか。学問の世界が持つ、歴史に対する敬意のようなものを教えられた気がします。

さらに研究を深めた段階であっても、たとえどのような発見であったとしても、それが「完全新規」ということはあり得ません。というのも、どのような鋭い洞察も、これまでの長い研究の歴史の上に成り立つものであるからです。

多くの神学者の研究というのは、それまでの研究者たちが残した疑問に応えたり、さらなる解決を試みたりする、終わりのない「繋がり」の中にあります。だからこそ、自分の研究だけが他の誰よりも優れているという態度にはなり得ないわけです。

「新しさ」とリテラシーの問題

そうした背景を考えると、「これは全く新しい発見だ」と声高に主張する意見には、注意を払う必要があるように思います。

昨今、私たちの社会は「アテンション・エコノミー(関心経済)」が問題視されています。いかに耳目を集めるか。そのためには、極端なことを言い切る、あるいはわざとヘイトや反発を集めるような手法をとる。しかし、どのような意見を主張するにしても、これまでの研究との対話を怠ってはならないと思うのです。

これは、発信する側だけの問題ではなく、受け取る側の「リテラシー」にも当てはまることでしょう。 ある人の意見が他の誰とも違うということは、一見すると独創性や奇抜性として認められるべきかもしれません。しかし、だからと言って、これまでの神学の歴史から切り離されてしまっては、その主張は非常に危ういものになります。歴史的な文脈を無視した「新しさ」は、しばしば独りよがりな解釈に陥るリスクを孕んでいるためです。

原文を読むということの「健全さ」

このことは、聖書を原語で読むときにも当てはまります。 「聖書を原語(ヘブル語やギリシア語)で読めれば、誰も知らない全く新しい発見ができる」と、過度な期待を抱くのは禁物です。

むしろ、原語に立ち返ることで得られるのは、新しい発見というよりも、「極端な解釈を避けられるようになる」という、健全なブレーキではないでしょうか。

先人たちが格闘してきた言葉の重みを知り、そこから逸脱しないための視点を持つこと。独創的であろうとするよりも、まずはその長い歴史の奔流の中に正しく身を置くこと。

神学を学ぶという営みの本質は、そうした地道で謙虚な作業の中にあるのだと、今はそう思っています。


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