クリスマスおめでとうございます。今年のクリスマスは、改めて「光」として来られたイエス・キリストを覚える時となっています。
‘すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 ‘
ヨハネによる福音書 1:9(口語訳)
これはクリスマスによく開かれる聖書の一節ですが、改めて目に留まったのは、キリストの光は「すべての人」を照らす光であるということです。ギリシア語は「すべて」を意味する「πάντα」と「人間」を意味する「ἄνθρωπον」という言葉が使われています。まさにすべての人、everyoneです。
この世界は、まるで闇に覆われたかのように、罪が溢れ、痛みや悲しみ、嘆きに満ちています。しかし、そのような世界をキリストは照らすために来られたのではないということは、少し驚きではないでしょうか。もちろん、その光の射程は、この世界全体を含んでいます。しかし、第一義的には、キリストの光は「すべての『人』」を照らすのです。
したがって、この世界を照らすのは、キリストの光で照らされた一人ひとりということになります。主イエスは、魔法のように一瞬にしてこの世界の闇を照らすために来られたのではなく、まずは一人ひとりを照らすために来られたのです。そして、一人一人がこの世界を照らす光となることを期待しておられるのです。
‘あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。 ‘
マタイによる福音書 5:14(口語訳)
まさにここで言われているように「あなたがた」が「世の光」なのです。キリストの光がこの暗闇に覆われた世界で輝いて、一瞬にしてすべての嘆き悲しみがなくなってほしいと誰もが願うものですが、しかしこの世界を照らす光とされたのは、キリストの光で照らされた一人一人なのです。
このことを考える時、私たち人間を神様は活かし、用いようとされているということがよくわかるのではないでしょうか。キリストにすべて丸投げでいいよとは聖書は語っていないのです。私たちが世の光とならなければならないということです。
それでは、世の光となって、この世界を照らすとは何でしょうか。これも深みのあるものだと思います。それでも一言で言い表すなら、それはこの世界に神の愛を届けるということだと思います。
暗闇で覆われた世界で、誰もが希望を見失い、生きる意味を探し求めている、そのような現実があるように思います。自分は一体誰に愛されているのかと、生きていることに価値を見出せないということもあるかもしれません。しかし、そのようなまさに暗闇覆われたこの世界で、あなたは愛されている、生きていることに意味がある、いやむしろ、生きるために造られたのだと語り伝える使命が、キリストの光で照らされた者にはあるのではないでしょうか。
もちろん、そんな綺麗事が通じるわけがないという意見もあるでしょう。それが簡単なことではないことは明らかです。しかしそれでも、その光でこの世界を照らすことが求められていることには変わりません。たしかに、たった一本のろうそくがこの世界全体を明るくすることはできません。しかし、隣の人の足元を照らすことはできるはずです。そのためには隣に、すぐそばに近づかなければなりません。私たち一人一人の光は小さいですが、だからこそ、今暗闇の中にいる人の近くに寄り添うことが求められているように思います。なぜなら、暗闇の中を歩いていた私たちに、誰よりも近づいてくださったのはイエス・キリストだからです。
このクリスマス、すべての人を照らすキリストの光がこの世界に溢れますように。
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