日本の国立国会図書館の本館入り口に、「真理がわれらを自由にする」という言葉がギリシア語と日本語で刻まれているのをご存知ですか? 世界中の大学や公的機関でも自由の象徴として掲げられているこの言葉ですが、実は新約聖書のヨハネの福音書8章32節にあるイエス・キリストの言葉に由来します。

私たちは「自由」と聞くと、どのような状態を思い浮かべるでしょうか。「誰にも命令されないこと」「ルールや枠に縛られないこと」「自分の好きなように生きること」……現代の多くの方が、そのようなイメージを連想するように思います。

しかし、聖書を注意深く読むと、イエスが語る「自由」は、私たちが思い描くイメージとは少し違う、ある種の「ギャップ」を含んでいることに気づきます。

「自由」になるための条件が「とどまる」こと?

「真理はあなたがたを自由にします」と語られる直前に、このように言われていることは注目に値します。

もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。 

ヨハネの福音書8章31節(口語訳聖書)

「とどまる」と「自由」。一見すると、この二つは矛盾しているように思われます。

「何にも縛られないのが自由なのに、イエスの言葉にとどまる(=教えの枠内に縛られる)のなら、結局不自由になるのでは?」と感じるのではないでしょうか。しかし、ここに聖書が語る「本当の自由」のパラドックス(逆説)が隠されています。

「好き勝手」は最悪の不自由

私たちは「誰の言うことも聞かず、自分の欲望のままに生きること」を自由だと勘違いしがちです。しかし、実は人間は「何にも縛られず、完全に独立した状態」にはなれません。

神様から離れて好き勝手に生きようとすると、どうなるでしょうか。結果的に、怒りや高慢、人を赦せない心、あるいは物質的な欲求といった、目に見えない力に支配されることになります。自分で自分をコントロールできなくなり、そうした「罪」や「欲望」の奴隷になってしまうのです。

「何にも縛られない」つもりが、実は自分自身という一番厄介な主人に縛られてしまう。好き勝手に生きることは、実は最悪の不自由への入り口であると聖書は指摘しています。

「とどまる」とは「子どもとして家に迎えられる」こと

では、イエスが言う「わたしのことばにとどまる」とは、厳しいルールで人をがんじがらめにすることなのかと言えば、決してそうではありません。

当時の社会において、「奴隷」とはいつ売られたり家から追い出されたりするか分からない、何の保証もない不安定な身分でした。一方で、その家の「子ども」は、いつまでもその家に「いる(とどまる)」ことができる永遠の特権を持っています。

実は、聖書の元の言葉(ギリシア語)では、31節の「(ことばに)とどまる」と、少し後の35節に出てくる「子はいつまでも(家に)いる」は、まったく同じ単語(メノー:μένω)が使われています。

つまり、イエスの言葉に「とどまる」ということは、窮屈な規則に縛り付けられることではありません。それは、単に知識として教えを理解するだけでなく、愛と信頼に基づく「生きた関係性」の中に居続けることなのです。

そうすることで、私たちは「欲望の奴隷」という不安定で不自由な状態から解放されます。そして、「神の子ども」として、永遠に安心できる居場所(家)に迎え入れられ、そこに「とどまる」ことができるのです。

真の自由とは

世の中が求める「自由」は、あらゆるつながりや束縛を断ち切った先にある、孤独な自由かもしれません。

しかし、イエスが提示した「真の自由」とは、自分を本当に愛し、命さえ懸けてくれる方との深い関係の内に「とどまる」ことで与えられる恵みです。それは「何にも縛られない」ことよりも、はるかに豊かで確かな自由なのです。

もし、世の中の「自由」に少し疲れや息苦しさを感じたときは、この聖書が語る逆説的な自由の形について、思い巡らせてみてはいかがでしょうか。