終末論の「地図」
前回の記事では、ディスペンセーショナリズムが広めた「預言の年表」という終末論の誤解を整理し、パウロの終末論が恐怖ではなく希望の神学であることを確認しました。
今回はその続きとして、パウロの終末論を支える根本的な枠組み——「二つの時代と二つの領域」——を見ていきたいと思います。
これはいわば、パウロの神学地図の骨格です。この地図を持つと、なぜ信仰者が罪と戦い続けるのか、なぜ御霊の働きは「確かだが不完全」に感じられるのか、そして希望とは何か、が驚くほどクリアに見えてきます。
ユダヤの「時間」観——二つの時代
パウロが生きた時代のユダヤ人には、歴史に対する独特の時間感覚がありました。
歴史は「この時代(ヘブライ語:עוֹלָם הַזֶּה、オラーム・ハッゼー)」と「来たるべき時代(עוֹלָם הַבָּא、オラーム・ハッバー)」という二つの時代に区切られています。「この時代」は罪と死の支配下にあり、やがて神の介入によって終わりを迎えます。そして「来たるべき時代」には、死者の復活と最後の審判があり、神の義と命が満ちることになります。これが第二神殿時代のユダヤ的終末論の基本構造でした。
そして、これらの二つの時代の間には、はっきりした「境目」があります。つまり、終わりの日の大きな断絶です。
パウロもこの枠組みを共有していました。しかし彼はそこに、一つの決定的な出来事を持ち込みました。キリストの復活です。
初穂——来たるべき時代が「前倒し」で来た
第一コリント書でパウロはこうのように書いています。
しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
コリント人への第一の手紙15章20節(口語訳聖書)
ここで使われている「初穂」というギリシア語は ἀπαρχή(アパルケー)です。旧約聖書では収穫の最初の一束を神に献げる慣習がありました(レビ23:10)。この初穂は、それ自体で完結した何かではなく、来たるべき豊かな収穫の「先触れ」であり「保証」です。わかりやすく言えば、収穫の一部が早く届いた、ということです。
パウロはキリストの復活を、まさにこの初穂として理解しました。本来なら「終わりの日」に起こるはずだった死者の復活が、歴史の真っ只中に前倒しで起きました。来たるべき時代が、この時代の中に割り込んできたのです。
これはユダヤ的終末論にとって、革命的な再解釈でした。二つの時代の間には明確な「境目」があるはずだったのに、キリストの復活によってその境目が曖昧になりました。より正確に言えば、二つの時代が重なり合うようになったのです。
重なり合う時代の緊張
この「重なり合い」こそが、パウロが随所で描き出す緊張の源泉です。
ローマ書にはこのような言葉があります。
夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。
ローマ人への手紙13章12節(口語訳聖書)
「夜は更けた」——もう「終わり」は近いのです。「昼は近づいた」——ですが、まだ来ていません。信仰者は夜明け前の薄暗がりの中に立っています。夜の支配はもう崩れかけていますが、完全に終わってはいません。
第一コリント2章でパウロは「この時代の支配者たち」(2:6)と書き、彼らが「滅ぼされていく者たち」であることを述べています。すでに決着はついています。しかしまだ戦いは続いています。キリストによって権威を剥奪された(霊的な)諸力が、いまだにこの時代に影響を及ぼし続けているのです。
二つの領域——アダムとキリスト
時代の重なりは、同時に二つの「領域」の重なりでもあります。
パウロはローマ5章と第一コリント15章で、アダムとキリストという対比を用います。アダムの領域には罪と死が支配し、キリストの領域には恵みと命が満ちています。信仰者はバプテスマによってアダムの領域から脱出し、キリストの領域に「移された」存在です。
コロサイ書は、この移行を過去完了形で表現しています。
神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。
コロサイ人への手紙1章13節(口語訳聖書)
つまり、すでに起きたこととして語られているということです。しかしその「移された」信仰者は、いまだにこの世界の肉のからだの中に生きています。アダムの影響はまだからだの中に残っています。
ここに信仰者の実存的な緊張があります。
かつての領域の価値観と習慣が、まだ内側に残っているわけです。一方で、キリストの領域の価値観と習慣へと、聖霊によって形成されていきます。どちらの領域に忠実であるかを、日々選び続けなければなりません。
御霊は「手付金」である
この重なり合う時代の中で、信仰者をつなぎとめているのが御霊の働きです。
エペソ書でパウロは御霊を「神の国をつぐことの保証」(1:14)と呼んでいます。ここで使われている ἀρραβών(アラボーン)は、契約金・手付金を意味するギリシア語です。商取引の文脈では、全額の支払いが確約されていることを示す先払いの金額を指します。
御霊の内住は、来たるべき時代の「全額」ではありません。しかしその全額が必ず届くことを保証する先払いです。御霊を受けている信仰者はすでに、来たるべき時代の命に与り始めています。しかし全てを受けるのは、からだの贖いが完成する終わりの日です(ローマ8:23)。
これが「御霊の働きは確かだが、まだ完全ではない」という感覚の神学的根拠です。不完全なのではなく、手付金なのです。
ぼくどくメモ
この枠組みを理解したとき、わたしは長年の疑問が解けたような気がしました。
「なぜクリスチャンになっても罪と戦い続けるのか」という問いへの答えが、道徳的な努力の不足ではなく、神学的な構造にあるということです。信仰者は完成した存在として生きているのではありません。二つの時代が重なり合う時間の中で、昼のように生きようとしながら、まだ夜の中にいます。
大切なのは、どちらの方向を向いているかです。
アダムの領域に引き戻されながらも、キリストの領域の価値観へと向かい続けること。御霊を手付金として受け取りながら、全額が届く日を待ち望むこと。これがパウロの描くキリスト者の実存です。
第一コリント15章の最後でパウロはこう言っています。
だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。
コリント人への第一の手紙15章58節(口語訳聖書)
夜はまだ続いています。しかし初穂はすでに届きました。収穫は必ず来ます。それを知っているから、今日も昼のように立って歩きます。
参考文献:Constantine R. Campbell, Paul and the Hope of Glory: An Exegetical and Theological Study (Zondervan Academic, 2020)
