聖書には、様々な方法で「待つ」人たちが登場します。そして、そこから多くを学ぶことができます。
「待つ」ということは、とりわけ現代人にとっては忌避されるものかもしれません。世の中のあらゆるものが、待たなくても済むような方向に進んでいます。しかし、「待つ」ことができない人生というのは、地に足がついていない生き方になってしまうということがあるのではないかと思います。
その一例として、『第一テサロニケ』が参考になります。テサロニケ教会の人々は、キリストの再臨を期待するあまり、どうやら仕事をやめてしまっていたようです。しかし、使徒パウロはそのような人たちに、勧告しています。
11 そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。 12そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。
テサロニケ人への第一の手紙4章11節(口語訳聖書)
確かに、未来に希望を見出すということは大事なことであり、必要なことです。その一方で、あまりにも未来ばかりに気を取られていると、今この時をしっかり生きるということがなおざりになってしまうということもあります。事実、テサロニケの人々は、おそらく、どうせ再臨されるのだから、働いても無駄だと考えて、仕事をやめてしまったのでしょう。しかし、そのような者たちに、落ち着いた生活をし、しっかり働くようにとパウロは勧めます。
ただ、今直面している現実があまりにも苦しいものであり、未来の希望を考えていなければやってられないという切実な現実があることも事実だろうと思います。誰であっても、大なり小なり、現実から逃げ出したいということがあるはずです。
そのようなことを考えると、聖書が教えている「待つ」ということは、ある意味、とても厳しく、チャレンジに満ちたものであると言わざるを得ません。待つことを現代人(に限らず、どの時代の人も)が嫌がることはよく理解できることです。
そのように、待つことのチャレンジを受けた人物の一人が、バプテスマのヨハネです(洗礼者ヨハネ)。彼は、イエスに洗礼を授けた人でもあります。
洗礼の描写については、共観福音書を比較すると、些細な違いが見られます(参照、マルコ1章、マタイ3章、ルカ3章)。ここで興味深いのは、ヨハネはイエスがまことのキリストであることを知っていたのか、ということです。中には、イエスはヨハネの弟子の一人であり、ヨハネはそのことを知らなかったと読めるものもあれば、ヨハネがイエスに一目置いているように読めるものもあります。
この点については、いくつかの解釈があるのだと思われますが、いずれにしても、ヨハネが大きな問いに直面することになったことは確かです。つまり、ヨハネがイエスを認識していたとしても、それが想像していたメシアのイメージとは全くかけ離れていたということです。
一般的に、当時の人々が期待していたメシア(キリスト:油注がれた者)は、ダビデ王のような軍事的な力を持った王だったと言えます。特に、当時はローマ帝国の圧政のもとにありましたので、ローマ帝国を打ち倒すような力強い指導者が待ち望まれていました。しかし、目の前にいるキリストは、そのような人々の期待しているものとは、あまりにもかけ離れていると言わざるを得ませんでした。
このことにヨハネは戸惑いを感じたことでしょう。自分が指し示したキリストは、果たして本当に聖書が預言している人物に間違いないのだろうか…
事実、ヨハネは自分の弟子たちにそのことを確認させに行きます。そこでのイエスとのやり取りを見てみましょう。
18 ヨハネの弟子たちは、これらのことを全部彼に報告した。するとヨハネは弟子の中からふたりの者を呼んで、
ルカによる福音書7章18-23節(口語訳聖書)
19 主のもとに送り、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねさせた。
20 そこで、この人たちがイエスのもとにきて言った、「わたしたちはバプテスマのヨハネからの使ですが、『きたるべきかた』はあなたなのですか、それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか、とヨハネが尋ねています」。
21 そのとき、イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが、
22 答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病にかかった人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。
23 わたしにつまずかない者は、さいわいである」。
「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか。」
まさに、ヨハネの正直な気持ちが表れていると言ってもよいのではないでしょうか。ローマ帝国を打ち倒すような力強い指導者を待ち望んでいた人にとって、イエスの活動は期待はずれと言っても過言ではありません。しかし、ヨハネはそれでも尋ねました。
すると、イエスの答えはどのようなものだったでしょうか。「はい」とも「いいえ」とも言わず、ただ事実を伝えます。つまり、イエスがなさっていた活動の内容です。ここに、イエスとはどのようなメシア(キリスト)であるのかが、端的に表されていると言えます。イエスというキリストは、軍事力を誇るのではなく、弱い者たちや社会から除外されているような人たちをあわれまれる王だということです。
ヨハネは弟子を通してイエスに問いかけました。しかし、今問われているのは、ヨハネの方です。イエスの活動を見聞きして、どのように判断するのか。残念ながら、ヨハネの回答は聖書には記されていません。というのも、すぐに処刑されてしまうからです。
しかし、このヨハネとイエスのやり取りは、大事なことを教えているように思われます。つまり、イエスがまことのキリストであるのかどうかを見極める必要があるということです。イエスの宣教活動を見て、聞いて、判断しなければなりません。そして、それは決して容易なことではありません。なぜなら、それまでの期待やイメージとは全くの正反対であるとさえ言えるからです。
自分が思っていたこと、考えたいたことを180度変えるということは、困難です。だからこそ、これはヨハネに与えられたチャレンジです。
ただ、ここで視点を変えて考えたいことは、このように問いかけたヨハネをイエスは責めていないということです。何をトンチンカンなことを言っているのだ、とは言わなかったということです。むしろ、改めてご自身がしている活動を伝えられ、その上で判断をするように促しているように思われます。これは、要するに、ヨハネに考える時間を与えているということなのではないでしょうか。
ヨハネという人は、まことのキリストの到来を待ち続け、証しし続けた人物です。そして、いざ目の前にその人が現れた時、それが本当にその方なのか、迷いました。なぜなら、想像とはかけ離れていたからです。しかし、待つということは、そういうことです。つまり、考えることであり、自分で確信を持って選び取るものだということです。
聖書が教える「待つ」ということは、ただ答えが与えられることを手持ち無沙汰に待っているということではありません。それは、まさにヨハネに与えられたチャレンジのように、自分の頭で考えなければならないことだと言えます。だからこそ、待つことを誰もが嫌うわけですけれども、しかし、それでも、そのように「待つ」ことができたら、それは今この時をしっかり生きるということにも繋がってくるのではないかと思います。
昨今の社会情勢を鑑みると、自分で考えることよりも、人からの答えに安易に飛びつき、時に大きなうねりに呑み込まれ、フェイクニュースに煽動されることもザラです。誰もが、このような危険と隣り合わせの現代です。しかし、そのような時代だからこそ、待つこと、考えること、そのような姿勢が必要なのではないかと思います。
ナザレのイエスがまことのキリストなのか。これはヨハネの生涯においても、最大の問いとなったのではないかと、個人的には考えています。しかし、それこそが、ヨハネに与えられたチャレンジであり、それこそが、本当の意味でヨハネに問われた「待つ」ということだと言えるのではないでしょうか。
