はじめに
アメリカ・イスラエルとイランの戦争が始まりました。ここで綴るのは、その現実から出発した一つの思索の記録です。
昨年末は、特定の政治的立場と終末論が結びついていることを指摘した書籍が、日本でも話題になりました(加藤喜之『福音派—終末論に引き裂かれるアメリカ社会』、中公新書)。本書は、アメリカの政治、特にトランプ大統領の政策を突き動かしているのは、福音派の終末理解にあるという論調です。
確かに聖書は終末について語ります。しかしその終末理解が、あまりにも人間的な形で理解され、あるいは利用されていないか、という懸念を個人的には持っていました。完璧な答えには辿り着いていませんけれども、それ自体が、この問いの本質を示しているかもしれないとも思っています。
「安直な終末論」への違和感
ディスペンセーショナリズムと呼ばれる終末理解があります。聖書の預言を現代の政治的出来事と直接結びつけ、イスラエルへの支持や中東の緊張が神の計画の一部であると解釈する立場です。この理解においては、特定の国家や政治勢力が終末のシナリオを「実現させる」役割を担うものとして位置づけられます。つまり、人間の政治的行動が神の計画を前進させるという発想が、その根底にあります。神の主権よりも、人間の側の動きが終末の成否を左右するかのような構図です。これが特定の政治的立場への無批判な支持と結びついているという批判は、多くの神学者が指摘してきました。問題の核心は、終末を「神が主導するドラマ」として受け取るのではなく、「人間が政治的に実現させるシナリオ」として扱ってしまう点にあります。
こうした終末論の歪みを前にしたとき、一つの問いが浮かびます。それは、イエス・キリストがいまだ再臨されていないということは、私たち人間がこのような悲惨な現実――戦争、暴力、憎しみ――に、もっと真剣に向き合うことを求められているのではないか、というものです。
ただし、ここには一つの罠があります。ディスペンセーショナリズムは「人間の政治で神の計画を実現できる」と考えます。一方、それへの反発として「人間が真剣に向き合えば状況を変えられる」と考えることも、構造としては同じです。どちらも、神の主権を脇に置いて人間の力に解決の重心を置いている点で、同じ根を持っています。その根とは、人間の高慢さ、神なしに何かを成し遂げられるという思い上がりです。右からのアプローチであれ左からのアプローチであれ、神の主権への信頼を欠いた終末論は、結局のところ人間中心主義という同じ場所に着地してしまいます。
罪論という視点
聖書といえば「救い」というイメージが先行しがちですが、救いを理解するためには、まず罪を知らなければなりません。聖書が語る罪は、単なる道徳的な過ちではなく、根源的に神から離れているという次元の話です。
しかし人間はこのことを受け入れることが難しいものです。というのも、罪の最も深い次元は「自分が罪人だとわからない」ことそのものだからです。戦争を起こす当事者たちが常に自らの正義を主張するのは、歴史の繰り返しが証明しています。
したがって、「罪の現実をもっと見つめよ」という内省の呼びかけには限界があります。そもそも、戦争を起こす立場にある権力者たちは、自らの行動を正義として確信しているがゆえに、内省の言葉を必要としません。むしろ内省の呼びかけに耳を傾けるのは、すでに自分の限界や弱さを知っている人々、つまり戦争を止める力を持たない弱い立場の人々です。内省の呼びかけは、届くべき相手には届きにくいのです。
語ることの限界と、それでも語り続けること
現実の戦争問題について考える時、聖書に記された歴史から学べることは多いと思います。
たとえば、預言者。どれだけ預言者が語っても、バビロン捕囚は起きました。語ることよりも経験することが、人間には必要な場合があるという現実があります。あるいは、たとえ話。放蕩息子は、痛い経験をしなければ父の元に帰ろうとしませんでした。言葉でいくら聞いていても、自分がその状況に置かれてはじめてわかることがあります。これは誰もが覚えのある、人間の普遍的な姿です。罪に無自覚なまま突き進む者、自らの正義を疑わない権力者の姿も、この文脈で捉えることができます。
ただし、ここで一つ明確にしておかなければならないことがあります。「経験しなければわからない」という論理は、罪を犯す側、あるいは罪に無自覚な側に向けられるものです。戦争の被害者、理不尽な暴力の中で苦しむ人々の痛みは、まったく別の次元にあります。その痛みを、(人間を訓練させるための)神の教育プログラムとして語ることはできません。
エレミヤはバビロン捕囚が避けられないとわかっていても語り続けました。「語っても変わらない」という認識と「それでも語る」という行為は、預言者においては矛盾していませんでした。語ることの無力さを知りながら語ること、これが預言者的使命の一つの姿だったと思います。
他人事という罪
この思索の過程で、私は自分自身の内にある自己矛盾に突き当たりました。
遠くの国で人々が暴力に怯え、実際に命を落としている現実があります。それにもかかわらず、私は安全な場所に身を置きながら、「なるほど、これが人間の罪性か」「終末論の解釈が歪んでいるからだ」と客観的に論じようとしていました。それは言い換えれば、現実に血を流している他者の痛みを、神学的な「分析サンプル」として扱ってしまう態度です。
聖書において、罪の対極にあるのは「愛」です。他者の生々しい悲惨な現実を、単なる神学のテーマや頭の体操として処理してしまう態度は、決定的に愛を欠いています。傷ついている人々を前にして、共に痛むのではなく、安全な場所から高尚な講釈を垂れる立ち位置は、傲慢であり、冷酷でさえあります。
戦争を起こす権力者たちは、他者の痛みに無関心であり、自分たちの正義や安全を優先します。そして恐ろしいことに、遠くから「他人事」として神学を論じている自分もまた、他者の痛みを単なる分析対象へと還元し、自らの安全な知的空間を優先していました。「戦争を起こす人間の心」と、「それを安全圏から解説している自分の心」は、スケールの違いこそあれ、「自己中心性」と「他者への愛の欠如」という、全く同じ罪の根っこから生えていたのです。
一般論として「人間は自らの罪を見つめなければならない」と語ることと、自分の冷たい視線の中に「戦争と同じ罪の構造」を発見することの間には、決定的な隔たりがあります。後者に気づいてはじめて、罪論は本当の意味で自分自身の問題になります。戦争や人間の罪性を地に足をつけて考えるとは、常にこのような「自らの立ち位置の罪」への問いを保持し続けることなのだと思います。
答えのない問いと向き合い続けること
この類の問題にぶつかるたびに思うのは、完璧な答えなどないということです。少なくとも、人間の能力では完全に理解し得ないという現実を、私たちは受け入れざるを得ないように思います。
「これをすれば世界が救われる」という安直な答えは、熱狂と大きなエネルギーを生みます。しかし、これまでの歴史はそのような熱狂が、しばしば新たな暴力を生み出してきたことを示しています。
答えの出ない人間の罪と向き合い続けることの中にしか、辿り着けない何かがあります。『伝道者の書』は「空の空」と言いながらも語り続け、エレミヤは「もう語るまい」と思いながらも語り続けました。その絡み合った現実の中で、問いを抱えて立ち続ける人間の姿を、神はいつも見ておられます。放蕩息子の父親が、家を出た息子の帰りをいつも待ち続けていたように。
おわりに
この問いに、すっきりした結論はありません。問いを抱えたまま立ち続けることが、安直な終末論への最も誠実な応答かもしれないと思っています。
ただ、「立ち続ける」とは、ただ考え続けることではないと思います。答えの出ない現実の前で、それでも天に向かって「いつまでですか」と問い続けること。詩篇の作者たちが繰り返したその嘆きの祈りは、知的な傍観者にとどまることを退け、苦しむ者たちの現実に霊的に連帯しようとする一つの姿です。遠い異国の出来事であっても、その痛みを神の前に持ち出し、嘆き、祈ること。それが「他人事」という罪から一歩踏み出す、最も具体的な行動ではないかと思っています。
