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「主の祈り」の「天にまします」とは?—マタイの福音書における「天」との関係から考える—

「主の祈り」は、イエス・キリストが教えてくださった祈りとして、これまでの教会の歴史の中で祈られ続けてきた世界共通の祈りです。よく知られている主の祈りは、マタイの福音書6章9-13節に記されています。また、ルカの福音書11章2-4節には、その「一部」が記されています。おそらく、「主の祈り」というのは、ことあるごとに語られたものであり、そのことから、『マタイ』と『ルカ』に見られる違いを説明できます。

しかしながら、『ルカ』に記されている主の祈りが、『マタイ』に比べて劣っているとか、部分的であるとか、と考えるのは、著者の意図を軽視することになりかねません。ですので、著者の意図、すなわち神学に注目することは、より理解を深め、味わうためには意味のあることだと言えます。そのようなことを踏まえるならば、今でこそ世界中で認知されている「主の祈り」、あえて言えば、マタイ版の主の祈りは、『マタイ』の文脈で解釈される必要があるように思われます。

その一例として、今回着目するのは、マタイ版主の祈りの冒頭のフレーズ「天にまします」です。

父なる神が天におられるということは、聖書全体を通して考えた時に、否定されることではありません。しかしながら、ここで『マタイ』が「天におられる」と記すことには、そのようないわば一般的なことではなく、『マタイ』ならではの視点があると言えます。

それと言うのも、「天の父」という表現は、『マタイ』で好まれる表現だからです。そのことは、「天におられる父」という表現が他の福音書にはほとんど見られない一方で、『マタイ』では異様に多く用いられることからも裏付けられます(マタイ5:16, 5:45, 5:48, 6:1, 6:9, 6:26, 7:11, 7:21, 10:32-33, 12:50, 16:17, 18:10, 18:14, 18:19; マルコ11:25; ルカ11:13)。

マタイ版主の祈りでは「天にいます私たちの父よ」となっていますが、ルカ版では単に「父よ」となっていることも、「天」という視点が『マタイ』ならではの特徴であることと無関係ではないでしょう。

したがって、「主の祈り」を祈る際に、ルカ版も踏まえるならば、単に「父よ」と祈ることも可能なわけですが、『マタイ』では「天にいます」が加えられています。ということは、そこに『マタイ』ならではの視点があると言えそうです。もちろん、これはイエスが「天にまします」と言っていない、ということではありません。問題は、なぜルカ版ではただの「父よ」で、マタイ版では「天にいます私たちの父よ」となっているのかということです。

マタイ版主の祈りにおける「天」の意味について、R.T.フランスはこのように指摘しています。

In well over half the references to “your Father” in the discourse, “in heaven” or heavenly” is added. It not only underlines the metaphorical nature of the concept but also prescribes the disciple’s attitude to God: he is on the one hand all-powerful and therefore completely to be trusted but on the other hand to be approached with the reverence which the following clauses of the prayer will express.

 R. T. France, The Gospel of MATTHEW, The New International Commentary on the Old and New Testament (Grand Rapids, MI; Cambridge, UK: William B. Eerdmans Publishing Company, 2007), 245.

フランスによれば、ここで「天にいます(in heaven)」や「天の(heavenly)」が付加されているということは、単に概念の比喩的な性質を強調するだけではなく、弟子の神に対して取るべき態度を規定しています。それはすなわち、神は”all-powerful”(全能)であるゆえに信頼に足るお方である、その一方で、”reverence”(畏敬)を持って近づくべき存在であるということです。

この点を踏まえるなら、ではなぜ『マタイ』ではこのことを強調しているのか、ということが次の課題となります。そこで、通説に従い、『マタイの福音書』がユダヤ的な福音書であると考えるとどうなるでしょうか。『マタイ』で想定されている主な「読者」がユダヤ人であった場合、旧約聖書に精通しているユダヤ人にとって、このことはどのような意味をもたらすでしょうか。

広く知られていることとして、『マタイ』における重要なテーマの一つに「天」が挙げられます。このことは、『マタイ』において、「神の国」よりも「天の国」が好まれて使用されていることからも裏付けられます。ちなみに、伝統的には、「神」の婉曲表現として「天」という言葉が代用されたと考えられてきましたが、『マタイ』は「神」という言葉を普通に使っていますので、必ずしも婉曲表現ではないと思われます。

『マタイ』における重要なテーマが「天」であるということについては、今回は扱い切れませんけれども、一つ挙げるとすれば、マタイ28:18において「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」と言われていることが重要だと思われます。「天」におられる父なる神の権威が、御子イエスにも与えられているということを、『マタイ』は一貫して主張していると言えます。

このように、天というのは、先のフランスの指摘にもあるように、単なる「場所」ではありません。ただ、一般的に、主の祈りにおいて、「天にまします…」と祈る際、いわゆる「天」に神様がいるものとして、そのイメージで祈っているという現状があるのではないかと思います。もちろん、それが否定されるわけではありませんが、より厳密に『マタイ』の神学を汲み取るなら、それは単なる場所的なことではなくて、神の権威という意味合いでの「天」に、より焦点が当てられて然るべきであるように思われます。

実際、ルカ版の主の祈りでは、単に「父よ」という呼びかけから始まっていますので、「主の祈り」には必ずしも「天にいます」がなければならないものということではないと言えます。これは極端に思われるかもしれませんが、あくまでマタイ版で「天にいます」が付加されているだけであって、それが絶対ではないという、それだけのことです。その上で、マタイ版の主の祈りを祈るということであれば、本来の意味にも目を向けることで、より深く主の祈りを味わうことができるようになるのではないでしょうか。

このような神の権威を意味する「天」というフレーズは、とりわけ、ユダヤ人にとってはどのように響いたでしょうか。当然、ユダヤ教においても、主なる神の権威は認められていましたし、また神が「父」であるという認識もあったと指摘されています。この点については、このように指摘されています。

Calling God “Father” (Abba) is not unique to Jesus,* and neither is it a revelation of a religious profundity that Judaism had not yet comprehended (what can be more intimate than Hosea 1–2 or 11:1–4?).

* Thus, see Old Testament texts like Pss 68:5; 103:13–14; Isa 63:15–16; Jer 31:9, 20, the famous avinu malkeinu (“Our Father, our King”) lines in classic Jewish prayers, like Ahabah Rabah and The Litany for the New Year, and texts like 4Q372 fragment 1:16.

Scot McKnight, Sermon on the Mount, ed. Tremper Longman III and Scot McKnight, The Story of God Bible Commentary (Grand Rapids, MI: Zondervan, 2013), 175.

しかしながら、問題は、『マタイ』の読者たち(主にはユダヤ人たち)が、天におられる主なる神からの権威がイエスに与えられていることを認めていなかったということにあります。そのことを踏まえるならば、『マタイ』において、「天」が繰り返し使われていてることの意図が僅かに見えてくるように思います。つまり、『マタイ』では一貫して、天におられる主なる神の権威が念頭に置かれていますが、それが最終的にはイエスご自身に帰されるということです(マタイ28:18)。

ここまでみてきましたように、主の祈りにおける「天にまします」というのは、いわゆる場所ではなく、神の権威を表すものであるということが念頭に置かれているということが言えます。恐れおおく、近づき難い主なる神を「父」と呼びかけることができる祈りが、イエスが教えてくださった「主の祈り」であると考えると、その祈りの奥深さをより味わえるように思います。

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