言葉にならない問い

「イエス・キリストが十字架で死んでくださった。」

これはキリスト教信仰の中心です。礼拝のたびに語られ、聖餐のたびに記念される出来事です。

しかし、ふとこんな問いが浮かぶことはないでしょうか。

「なぜ、死ななければならなかったのか。」

神が人を赦そうとするなら、なぜ「赦す」と宣言するだけではいけないのか。なぜわざわざ十字架という残酷な死が必要だったのか。長く信仰を持つ方でも、いざ言葉にしようとすると意外と難しい問いです。

前回の記事では「罪とは何か」を考えました。

罪が単なるルール違反ではなく、神との関係の断絶であることを見てきました。今回はその続きとして、「その断絶はどのように回復されたのか」――すなわち、イエスの死が何をしたのかを、聖書のテキストに沿って掘り下げていきたいと思います。

神学的には、この問いを扱う分野を「贖罪論(しょくざいろん)」と呼びます。「贖(あがな)う」とは、代価を払って取り戻すという意味です。では、何が、何によって、どのように取り戻されたのか。聖書はこの問いに、実に豊かな言葉で答えています。

贖罪論の複数のモデル――「地図」として

最初に正直に申し上げておきたいことがあります。「なぜイエスは死ななければならなかったのか」という問いに対して、聖書はただ一つの説明だけを与えているわけではありません。教会の歴史の中で、複数の「読み方」「理解の枠組み」が生まれてきました。

これは「どれが正解か」という争いではなく、十字架の出来事があまりに深く、豊かであるため、どれか一つの枠組みだけでは語り尽くせないということだと私は思っています。いくつかの主要な理解を「地図」として整理しておくことで、後の聖書テキストの読みがより立体的になります。

刑罰代償説(Penal Substitution)

特にカルヴァン以来の改革派神学が強調してきた理解です。罪は神の義(正義)に対する違反であり、その罰(死)が当然の結果として人間に帰せられる。しかしキリストが「私たちの代わりに」その刑罰を引き受けてくださった――これが刑罰代償説の核心です。

この考え方の土台を神学的に整えたのは、11世紀のカンタベリーの大主教アンセルムスです(著書『なぜ神は人となったか(Cur Deus Homo)』、1098年)。アンセルムスは「罪は神の名誉を傷つけるものであり、それに釣り合う補償(satisfactio)が必要だ」と論じました。グスタフ・アウレンはこの流れを「ラテン的償罪論」と呼び、功績(merit)・苦行(penance)・満足(satisfaction)の三要素を特徴として挙げています。西側プロテスタントはこの「ラテン的償罪論」の強い影響を受けてきたとアウレンは論じます(山口希生「宇宙的な力としての罪」『福音主義神学』第48号、30頁)。カルヴァンは『キリスト教綱要』第2篇第16章5節で次のように述べています。

我々の赦免は、我々の負うべき刑罰の由って来たる罪責が神の子の首に移されたことにある。

ジャン・カルヴァン、渡辺信夫訳『キリスト教綱要 改訳版 第1篇・第2篇』(新教出版社、2007年)、554頁

罪責が「移される」――これは刑罰代償説の核心を簡潔に表した言葉です。ただしカルヴァンはこの章の続き(§6)で、イザヤ53章の「アーシャム(とがの供え物)」とローマ3:25の「ヒラステーリオン」、そしてコロサイ2:14-15の「支配と権威の武装解除」をひとつながりに論じており、刑罰代償の側面だけでなく、贖罪論の複数の側面を統合して理解しようとしていたことがわかります。

ミグリオリはこの刑罰代償説(充足説)について、強みと弱みの両方を指摘しています。強みとしては、罪の重大さと贖いの高価さを明確に示す点が挙げられます。しかし問題点も看過できません。アンセルムスの枠組みは中世の封建的・法的思想を前提としており、「神は自らの名誉への損害について等価な賠償を必要とする」という発想は、神を封建君主のように描くきらいがあります。また、より根本的な問題として、「神の義と神の愛が対立する」かのような印象を与えかねない点があります。新約聖書において和解を必要としているのは人間であって神ではなく、神こそが和解の主体であることをこの説は十分に表現しきれない場合があります(D.L.ミグリオリ『現代キリスト教神学 理解を求める信仰』(下田尾治郎訳、日本キリスト教団出版局、第8章参照)

勝利者キリスト説(Christus Victor)

十字架と復活を一体のものとして捉え、「キリストの死と復活は、罪・死・悪魔という人間を縛る諸力に対する勝利である」と理解する枠組みです。スウェーデンの神学者グスタフ・アウレン(Gustaf Aulén)が20世紀前半に著書『勝利者キリスト(Christus Victor)』(英訳1931年、A. G. Hebert訳)でこの枠組みを体系化しましたが、考え方自体は初代教会から存在します。こちらは、邦訳も出ています。

アウレンはキリスト教贖罪論を「古典的贖罪論」と「ラテン的償罪論」に分類しています。「ラテン的償罪論」とはアンセルムス以来の、神と人間という二者の法的関係を基盤とする理解です(功績・苦行・満足という三要素が特徴)。これに対して「古典的贖罪論」は、救済を「神に始まり、神に終わる」ものとして捉え、キリストが罪・死・悪魔という宇宙的な諸力に対して勝利し、人類をそこから贖い出したと理解します(山口希生、前掲論文、30-31頁)。

注目すべきは、アウレンがルターの贖罪論も「古典的」に分類していることです。ルターは確かに「キリストが全世界の罪を担われた」と語りますが、それと同時に、罪を「全被造物を支配下に置く宇宙的な独裁者」として描き(1531年のガラテヤ書講解)、「キリストはその死によって罪と死とを滅ぼした」と力強く語っています。この意味でルターの救済理解において、勝利者・解放者としてのキリストは極めて重要な位置を占めているのです(山口希生、前掲論文、33-34頁)。

この理解では、十字架は単なる「刑罰の引き受け」ではなく、悪の権力に対する神の決定的な戦いの場です。コロサイ書2:15の「キリストは支配と権威の武装を解除し、十字架によって彼らに勝利して、さらしものとされた」という言葉は、この理解をよく表しています。

道徳感化説(Moral Influence Theory)

12世紀の神学者アベラルドゥスに由来する理解で、しばしば「模範説」とも呼ばれます。十字架はまず「神の愛の極限の示し」として捉えられます。その愛を目の当たりにすることで、私たちの心が動かされ、神へと向き直る――感化・変革の力として十字架を理解します(D.L.ミグリオリ、前掲書)。

ヨハネ3:16「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉の強調がこれに対応します。ただしミグリオリも指摘するように、アベラルドゥス自身の立場を単純な「感化説」に限定できるかどうかは必ずしも定かではありません。

ミグリオリはこの説の強みとして、神の愛の無条件な性質と人間の側からの応答の重要性を強調する点を挙げています。信仰の行為において受け入れられ、その人の生を変革させる力を持つという側面は、この説が持つ真の洞察です。

他方、弱みとして、特に近現代における多くの感化説が、この世における悪の力とその執拗さを低く見積もり、イエスをナイーブな自己犠牲愛の模範として描きすぎる傾向があると指摘します。神学者H・リチャード・ニーバーによる次の言葉は、この危険性を鋭く突いた批判として広く知られています。

「怒りなき神は、罪なき人々を、十字架なきキリストへの奉仕を通して、審きなき王国へと連れてくる。」(H・リチャード・ニーバー)

D.L.ミグリオリ、下田尾治郎訳『現代キリスト教神学 理解を求める信仰』(日本キリスト教団出版局、2016年)、275頁

十字架を「感動的な愛の物語」に矮小化してしまうとき、罪の深刻さも、神の義も、そして復活の意味も薄れてしまう――この批判は今も重みを持っています(D.L.ミグリオリ、前掲書)。


これら複数の理解は、互いに排除し合うものではなく、それぞれが十字架の出来事の異なる側面を照らしています。聖書自体が複数の言葉・イメージを用いてイエスの死の意味を語っているのですから、私たちもその豊かさに誠実に向き合うべきでしょう。以下、三つの主要な聖書テキストを読んでいきます。

イザヤ書53章――旧約が語る「苦難のしもべ」

新約聖書がイエスの死を理解するために最も頻繁に参照した旧約テキストが、イザヤ書53章です。新約の中にはイザヤ53章の明示的な引用や暗示が20箇所以上あると言われており、初代教会がいかにこの箇所をイエス理解の「鍵」として読んでいたかがわかります。

テキストを読む

まず、核心的な箇所を引用します。

まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

イザヤ書53章4-6節(口語訳聖書)

この短い段落の中に、前回の記事で取り上げた罪の語彙が凝縮されています。「背き(פֶּשַׁע, ペシャ=反逆)」「咎(עָוֹן, アヴォン=ゆがみ・罪責)」――これらはまさに、罪の多面的な現実を表す言葉です。「しもべ」はその両方を「担い」「負う」とされています。

さらに53章10節にはこうあります。

「しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物(אָשָׁם, アシャム)となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。

イザヤ書53章10節(口語訳聖書)

ここに登場する「とがの供え物」(אָשָׁם, アシャム)は、レビ記で定められた贖罪の犠牲の一種です(レビ記5〜7章)。苦難のしもべの死が、単なる悲劇ではなく、神の定めた犠牲として位置づけられていることがわかります。

「しもべ」とはだれか

イザヤ書の文脈では、この「しもべ」が誰を指すかについて、古代から様々な読みがありました。イスラエルの民全体を指す集合的解釈、あるいは預言者個人、あるいは来たるべきメシアを指すという解釈です。

初代教会はこの章をイエスへの預言として読みました。エチオピアの宦官がこの箇所を読んでいたとき、ピリポが「その人は自分自身について言っているのか、それとも他の誰かについて言っているのか」と問われ、ピリポは「イエスのことを宣べ伝えた」(使徒言行録8:34-35)とあります。イエス自身もマルコ10:45で「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(λύτρον, リュトロン)として自分の命を献げるために来た」と語り、イザヤ53章を意識した発言をしています。

ローマ3:21-26――パウロが語る「なだめの供え物」

パウロが贖罪を神学的に最も凝縮して論じている箇所がローマ3:21-26です。

テキストを読む

しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物(別訳〈贖いの座:ἱλαστήριον, ヒラステーリオン〉)とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。

ローマ人への手紙3章21-26節(口語訳聖書)

「ヒラステーリオン」をめぐって

この箇所で最も注目すべき語が「贖いの座(ἱλαστήριον, ヒラステーリオン)」です。この語はギリシア語旧約聖書(七十人訳聖書)において、契約の箱の蓋、すなわち「贖いの蓋(כַּפֹּרֶת, カッポレト)」を指す言葉として用いられています。レビ記16章の大贖罪日(ヨム・キプール)の儀式で、大祭司がこの蓋に動物の血を注ぐことで、民の罪の贖いが行われました。 パウロがここでこの語を選んだことは、意図的です。「神はキリストをヒラステーリオンとして公に示された」――イエスの十字架を、大贖罪日の儀式が指し示していたものの成就として位置づけているのです。幕屋の奥深くで、一年に一度、大祭司だけに許された秘密の儀式は、今や公に、すべての人のために、キリストの十字架において完成された――パウロはそのように語っています。

「神の義」と赦しの両立

この箇所でパウロが力を入れているのは、「神はどうやって義(正義)を保ちながら罪人を赦すことができるのか」という問いへの答えです。

単に「赦す」と宣言するだけでは、神の義(正義)が損なわれてしまう。かといって、義に従って全員を裁くならば、誰も救われない。パウロはここで、「神はキリストにおいて、ご自分の義を示しつつ、同時に信じる者を義としてくださった」と語ります。神の義と神の愛が、十字架において同時に満たされた――これが、パウロの贖罪理解の核心です。

26節の「神は御自分が正しい方(義なる者)であることを示され、また、イエスを信じる者を義としてくださる」という言葉は、この二つの側面を一文に凝縮しています。

補論――「ピスティス・クリストゥ」をめぐる議論

ここで、近年のパウロ研究において活発に議論されている視点を一つ紹介しておきたいと思います。

22節の「イエス・キリストを信じることにより(διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦ)」という表現をめぐって、これを「イエス・キリストへの信仰(人間の側の信仰行為)」と読むか、「イエス・キリストの真実・従順(キリスト自身の神への忠実さ)」と読むかで、学者の間に大きな議論があります。前者を「目的格的属格」、後者を「主格的属格(ピスティス・クリストゥ)」と呼びます。

改革派の新約学者トーマス・シュライナーは、伝統的な読み方(目的格的属格)を支持し、ここでの信仰はあくまで信じる者の側の行為であると論じます。これに対してルーク・ティモシー・ジョンソンは、シュライナーへの応答の中で、主格的属格の読みを擁護し、ローマ5:12-21のアダムとキリストの対比――「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされ、一人の従順によって多くの人が義とされる」――を踏まえれば、3:21-26における「ピスティス・クリストゥ」の意味はキリストの神への従順に見出されると論じます(Luke Timothy Johnson, “Response to Thomas R. Schreiner,” in Four Views on the Apostle Paul, Zondervan, 2012, p.51)。

この議論は現在も決着していません。ただいずれの読み方においても、救いが「私たちの外から(extra nos)」来るという本質的な事柄は変わりません。「私たちの信仰に先行して、キリストの真実が私たちを義とする」というジョンソンの指摘は、救いが徹底して神の恵みの業であることを際立たせるという意味で、示唆に富んでいます。

ヘブル書――大祭司キリストと「一度限りの」犠牲

ヘブライ書は、旧約の祭儀制度(特に大贖罪日の儀式)を「影」として、キリストの死をその「実体」として読み解く、独特の神学を展開します。レビ記を熟知した読者を想定して書かれたこの書簡は、「なぜイエスの死か」という問いに、もっとも体系的に答えている新約文書の一つです。

大祭司としてのキリスト

ヘブル書の中心的なキリスト理解は「大祭司」です。

しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。

ヘブル人への手紙9章11-12節(口語訳聖書)

旧約の大祭司は毎年、大贖罪日に動物の血を携えて至聖所に入りました。しかしその儀式は「来るべきものの影」(ヘブライ10:1)にすぎず、根本的な解決をもたらすものではありませんでした。キリストはご自身の血をもって、「ただ一度(ἐφάπαξ, エファパクス)」真の聖所に入り、「永遠の贖い」を成し遂げた――ヘブライ書はそのように語ります。

「一度限り」の決定的意義

ヘブライ書が繰り返し強調するのは「一度限り(ἐφάπαξ)」という言葉です。

この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。

ヘブル人への手紙10章10節(口語訳聖書)

彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。

ヘブル人への手紙10章14節(口語訳聖書)

旧約の犠牲は繰り返されなければなりませんでした。それ自体が、「まだ問題は解決していない」ことを示していました。しかしキリストの死は「一度限り」で永遠に有効です。これは単なる量の違いではなく、質の違いです。動物の血は罪の問題を根本的に解決できませんでしたが(ヘブル10:4)、神の御子の死は、人間と神との関係を根本から回復させる力を持つ――ヘブル書はそう主張します。

スケープゴートとしての側面

大贖罪日の儀式(レビ記16章)には、もう一つ重要な要素があります。二頭のヤギのうち一頭は犠牲として屠られますが、もう一頭(「アザゼルのヤギ」)は、大祭司が民の罪を手を置いて告白したうえで、荒野に追いやられます(レビ記16:21-22)。罪を「除去する」「遠くに送り去る」というイメージです。

詩篇103:12の「東が西から遠いように、わたしたちの背きをわたしたちから遠ざけてくださる」という言葉や、ミカ書7:19の「わたしたちのすべての罪を深い海の底に投げ込んでくださる」という言葉は、同じ「除去」のイメージを持ちます。キリストの死は、私たちの罪を「担う(イザヤ53章)」だけでなく、「取り去る(ヨハネ1:29『世の罪を取り除く神の小羊』)」意味をも持つのです。

「なぜ死か」――問いへの答え

ここまで三つの聖書テキストを読んできました。改めて最初の問いに戻りましょう。

「なぜイエスは死ななければならなかったのか。」

聖書が示すものを端的に整理するとこうなります。

第一に、罪は「なかったこと」にできないから。

神の義(正義)は、罪をなかったことにすることを認めません。罪は現実であり、その断絶の深さも現実です。神はその現実を直視し、見て見ぬふりをされませんでした。アンセルムスの言葉を借りれば、「あなたはまだ、罪がいかに重いかを考えていない(nondum considerasti quanti ponderis sit peccatum)」のです。神が義なる神であるゆえに、罪の問題は正面から解決される必要がありました。さらにパウロは、この罪を個人の失敗にとどまらず、人類全体を奴隷のように支配する「力」として描いています。キリストの死は、私たちをその暗闇の支配から力強く奪い返す「解放」の出来事でもあったのです。

第二に、神は愛ゆえに、その解決をご自身で引き受けてくださったから。

神は裁判官として人間に判決を下すだけでなく、その判決を御自身が担ってくださいました。パウロが「神はキリストにおいて世を御自分と和解させてくださった」(第二コリント5:19)と語るとき、和解の主体は神ご自身です。十字架は、人間が神を宥めるために何かをしたのではなく、神が人間に代わって代価を払い、自ら和解のための最善を尽くしてくださった出来事です。

第三に、死は復活という「新しい創造」へと向かっているから。

キリストの死は、それ単独で完結するものではありません。ヘブル書が「永遠の贖い」と語るとき、またパウロがアダムとキリストを対比させるとき(ローマ5章)、イエスの死は復活と不可分です。キリストの復活は、古い世界が終わり「新しい創造」が始まった決定的な幕開けでした。死によって罪の問題が解決され、復活によって新しい命が始まった――私たちがこの新しい命にあずかって生きるために、十字架と復活はワンセットとして理解されるべきなのです。

あなたにとって、十字架は何ですか

贖罪論は、抽象的な神学理論ではありません。「あなたのために、キリストは死んだ」という、きわめて具体的で個人的な宣言です。

刑罰代償説の言葉で語れば、「あなたが受けるべき裁きを、キリストが代わりに受けた」。勝利者キリスト説の言葉で語れば、「あなたを縛っていた罪と死の力は、キリストの十字架と復活によって打ち破られた」。道徳感化説の言葉で語れば、「これほどまでに愛されたあなたは、その愛に応えて生きることができる」。

どの言葉があなたの心に響くかは、人によって、あるいは時期によって異なるかもしれません。しかしどの言葉も、同じ出来事――ゴルゴタの丘で起きた死と、三日後の復活――を指しています。

ルターは十字架の前に立ったとき、こう語ったと伝えられています。「これは私のためだ(pro me)」と。神学的な理解の前に、この一言が出発点ではないかと思います。

あなたにとって、十字架は何ですか。「知識」としての十字架から、「私のための十字架」へ――そこに、救いの喜びの源があります。

次回は、「義認とは何か――神に正しいとされるとはどういうことか」を取り上げる予定です。