聖書学の論文を読んでいると
聖書に関する学術的な本や論文を読んでいると、ときどき不思議な感覚に陥ることがあります。
「この手紙はパウロが書いたのか、弟子が書いたのか」「この出来事は史実として起きたのか、それとも後代の神学的創作なのか」――気がつくと、そういった問いへの答えを探すことに、膨大なページ数が費やされているのです。
それ自体は決しておかしなことではありません。聖書は神の言葉であると同時に、特定の時代・文化・言語の中で書かれた歴史的文書でもあります。その歴史的背景を丁寧に探ることは、正しい解釈のための大切な土台です。
ただ、読み終えたあとにふと思うことがあります。「で、この書物は何を語っているのだろう?」と。
歴史批評という方法
19世紀から20世紀にかけて、聖書研究の世界では「歴史批評(historical criticism)」と呼ばれる方法が主流となりました。これは、聖書のテキストを歴史的・文献学的な目で分析し、「誰が」「いつ」「どのような状況で」書いたかを明らかにしようとするアプローチです。
この方法は多くの実りをもたらしました。聖書の時代背景、当時の文化や社会制度、原語(ヘブル語・ギリシア語)の意味の正確な理解――こうした成果がなければ、今日の聖書注解の多くは成立しなかったでしょう。歴史批評の功績は本物であり、その蓄積は今も聖書研究の土台を支えています。
問いの重心はどこへ向かったか
しかし、20世紀の聖書研究を俯瞰すると、研究エネルギーの多くが特定の問いに集中してきた様子が見えてきます。
旧約聖書では「出エジプトの記事はどこまで史実か」「イザヤ書は一人の著者によるものか、複数著者によるものか」といった問いが議論の中心を占めました。新約聖書では「エペソ書やコロサイ書はパウロ自身が書いたのか、それとも後の弟子が書いたのか」という真筆性論争が多くの学術誌のページを埋めてきました。
これらの問いに答えることは、たしかに重要です。しかし、それが研究の「出口」になってしまうとき、別の問いが手つかずのまま残されることがあります。つまり、「では、このテキストは神学的に何を語っているのか」「信仰者にとってこの言葉はどんな意味を持つのか」――といった問いです。
史実かどうかを論じることで力を使い果たし、肝心の「この書物が語っていること」への深い問いかけが後回しになる。聖書研究の世界の中から、そうした状況への反省の声が上がってきたのは、ある意味で自然なことだったのではないかと思います。
内側から生まれた問い直し
この問題を正面から問い直した学者として、20世紀のアメリカの旧約聖書学者ブレバード・チャイルズ(Brevard Childs)の名前がよく挙げられます。チャイルズは「正典批評(canonical criticism)」と呼ばれるアプローチを提唱し、歴史批評一辺倒の研究に対して「信仰共同体に受け継がれてきた聖書の最終的な形こそが出発点であるべきだ」という問い直しを行いました。学術的な影響力という点で、チャイルズの貢献は広く認められています。
このような動きは、歴史批評への否定ではありませんでした。むしろ、歴史批評の成果を受け取りながら、そこで立ち止まらずに神学的な問いへと進もうとする試みです。
現在、このチャイルズの研究について詳しく触れている貴重な和書としては、田中光著『新しいダビデと新しいモーセの待望—イザヤ書の正典的解釈』(教文館、2022年)があります。これは博士論文として書かれたイザヤ書の研究です。そして、そのための方法論的基礎となっているのが、チャイルズの研究であり、600頁近い分量のうち、約3分の1がチャイルズに関するテーマに割かれています。やはり、博士論文ともなると、その前提について、これほど丁寧かつ緻密に取り上げる必要が出てくるわけですね。
研究することと、読むこと
つまるところ、歴史批評が示してきた問いを軽視すべきではないと思います。「誰が」「いつ」「なぜ」書いたかを丁寧に考えることは、テキストへの敬意の一形態でもあります。
ただ同時に、聖書を「神が人に語りかけた書物」として受け取る信仰者にとって、歴史的問いはあくまでも入口であって、出口ではないはずです。論争の決着を待ってから神学を始める必要はありません。著者が誰であれ、コロサイ書が語るキリストの宇宙的な主権は、読者に問いかけてきます。イザヤ書が描く「苦難のしもべ」の姿は、著者論争の結論とは独立して、深い問いを私たちに投げかけてきます。
研究は、読むことを豊かにするためにある。この順序を大切にしたいと思います。
ぼくどくメモ
聖書学の論文を読むと、著者論争や史実性議論の決着がつかないまま終わっているものが多く、「で、この書物は何を言っているの?」という感覚を抱くことが正直あります。
ですが同時に、その地道な議論の積み重ねなしには、今日の聖書解釈の豊かさはなかっただろうとも感じます。歴史批評の学者たちが何世代にもわたって培ってきた成果は、いまも私たちが聖書を読む基盤になっています。
大切なのは「どちらが正しいか」ではなく、「どこに向かって読むのか」なのではないでしょうか。聖書が私たちに語りかけている神学的な深みへ――研究はその旅の道連れであってほしい、と一人の読者として願っています。
