この言葉は、英語の「Exegesis」から来ていて、意味は「釈義・注解」です。聖書に関する注解書などでよく目にする言葉でもあります。私はこの姿勢、つまり「Exegetical(な)」学びを、聖書を読む上で大切にしたいと考えています。
津村俊夫先生は、聖書を釈義することを次のように定義しています。
「聖書の究極の著者である神が、人間の著者を通して伝えようと意図された意味を理解するために、忍耐強く聖書テキストに聞き続けること。」
『福音主義神学における聖書釈義』(福音主義神学45号、2014年)10頁
聖書を通して伝えられている神のことばを理解することは、決して簡単なことではありません。こう聞きますと、「なんてまわりくどい書物なんだ」と思われるかもしれません。確かにそうとも言えるかもしれませんが、私はむしろ、そうだからこそ、信仰者に期待されている姿勢は「求める心」なのではないかと思います。神のことばはなんとなく与えられるものではなく、求めた先に、それも忍耐強く求め続けたその先にあるものではないかと思うのです。それには当然、忍耐力も必要です。また、必ず主が教えてくださる、という信頼も欠かせません。その中で、求め続けても一向にわからないことがあることも事実です。そういう意味でも、津村先生の定義する「理解するために忍耐強く聖書テキストに聞き続けること」は、生涯をかけて聖書を学ぶ者に欠かせない姿勢であると言えます。
もちろん、テキストの意味を釈義するための「方法」というのはいくつかありますので、それらについてもゆくゆくは触れていきたいと考えています。
このブログでは、このような「Exegeticalな」聖書の学びの姿勢を大切に、聖書に忍耐強く聞き続けていきたいと思っています。
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