「神義論」とは

神義論とは Theology Proper|神論
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神義論の定義

「神義論(Theodicy)とは:

全知・全能・全善の神が存在するならば、なぜこの世界に(苦しみや不条理があるのか?」という疑問に対し、神の義(正しさ)を擁護・説明する神学的・哲学的な理論です。

この用語は、ドイツ人哲学者ゴットフリート・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)が、1710年に出版した『弁神論』で用いたことから定着しました。


神義論が扱う「悪の問題」

神義論が解決しようとする根本的な問題は、以下の3つの命題が同時に成り立つことを困難とする「悪のトリレンマ」として表現されます。

  1. 神は完全に善である。 (God is perfectly good.)
  2. 神は全能である。 (God is omnipotent.)
  3. 世界に悪が存在する。 (Evil exists in the world.)

もし神が完全に善であり、悪を許さないとすれば、なぜこれほど多くの苦しみや不正が世界に存在するのか。もし神が全能であるならば、なぜ悪を阻止できないのか。この矛盾を解決しようとするのが神義論の主要な目的です。


神義論の主な類型と議論

神義論には、その歴史の中で様々なアプローチが試みられてきました。代表的なものをいくつか挙げます。

  1. アウグスティヌス型神義論(自由意志による擁護論)
    • 概要:聖アウグスティヌスに由来する考え方で、悪は神が創造したものではなく、自由意志を持つ人間が神に背いたこと(原罪)によって世界に入り込んだとします。神は善であり、悪の責任は人間に帰せられます。
    • 特徴:悪を「善の欠如(privatio boni)」と捉え、神は悪そのものを創造したわけではないと説明します。人間が自由意志を濫用した結果として悪が生じたため、神は道徳悪に直接責任を持たないとします。
    • 批判:自然悪(地震、津波、病気など)を説明しきれない、自由意志と悪の必然性の関係が曖昧、神が最初から人間が悪に陥ることを知りながら自由意志を与えたのはなぜか、といった批判があります。
  2. エイレナイオス型神義論(魂の成長論、ソウル・メイキング神義論)
    • 概要:エイレナイオスに由来する考え方で、悪や苦しみは、人間が精神的・道徳的に成長し、魂を完成させるための「教育的手段」として神によって許されているとします。
    • 特徴:この世界は完璧ではなく、人間は未熟な存在であり、苦難を通してこそ忍耐、慈愛、勇気などの徳を身につけ、神との関係を深めることができると説明します。
    • 批判:極端な苦しみや無意味に見える悪(幼子の死など)を説明しきれない、悪を肯定的に捉えることで苦しんでいる人々の感情を無視しているのではないか、という道徳的な問題が指摘されます。
  3. ライプニッツの神義論
    • 概要:ライプニッツは、神は無限に存在する可能性のある世界の中から、最も善く、調和のとれた「最善の世界」を創造したと主張しました。
    • 特徴: この「最善の世界」においても、部分的な悪が存在することは全体の善を損なわない、あるいはむしろ全体の調和のために必要不可欠な要素であるとします。例えば、影があるからこそ光が際立つように、悪があるからこそ善が認識されるといった考え方です。
    • 批判: 現実の悪の深刻さを軽視している、この世界が本当に「最善」なのかという疑問、神が創造した世界にこれほど多くの悪が存在するならば、神の善性や全能性に疑問が残る、といった批判があります。
  4. プロセス神義論
    • 概要:20世紀のプロセス神学の立場から提唱されたもので、神は全能ではなく、世界との関係において変化し、共に苦しむ存在であるとします。神は強制的に悪をなくすことはできないが、善へと導く影響力を持っているとします。
    • 特徴: 神の全能性を再定義し、神が「説得力を持つ」存在であって「強制力を持つ」存在ではないとすることで、悪の存在を説明しようとします。
    • 批判: 伝統的な一神教の神概念(全知全能の神)から逸脱しているという批判があります。
  5. 終末論的神義論
    • 概要:この神義論の核心は、現在の不正義、苦しみ、悪は一時的なものであり、神が最終的に介入し、すべてを正し、苦しむ者に報いを与えるという終末論的な期待です。個人レベルでは、死後の報い(天国、復活)によって、生前の苦難が意味を持つとされます。例えば、不当に苦しんだ義人は来世で永遠の喜びを得るといった考え方です。歴史全体としては、神の王国が最終的に確立され、すべての悪が根絶されるという期待があります。
    • 特徴:現在の悪は、歴史が最終的に完成するまでの「一時的な」あるいは「過渡的な」状態として捉えられます。神は今すぐ悪を完全に排除しないが、最終的にはそうすると信じられます。また、今現在の私たちには理解できない神の計画や意図が存在し、その全体像は終末の時に初めて明らかになるという考え方です。現在の悪はその壮大な計画の一部であるとされます。したがって、「今は見ることができなくても、やがてすべてが明らかになる」という信頼が中心にあります。
    • 批判:
      現在の苦しみの軽視
       「最終的に報われるから」という論法は、現在苦しんでいる人々の痛みや苦しみを軽視している、あるいは「我慢しろ」と言っているように聞こえる、という批判があります。
      説明責任の回避
      悪の存在に対する具体的な説明をせず、「最終的に神が解決する」とすることで、神の善性や全能性に関する問いかけから逃避している、と見なされることがあります。
      非検証可能性
      終末の出来事は検証不可能であり、それによって現在の悪を正当化することはできない、という実存的な批判があります。
      「隠れた神(Deus absconditus)」の問題: 神が最終的な解決を約束しているにもかかわらず、なぜ現在これほどの悪を許しているのか、という「隠れた神」の問題(神の沈黙や不在)は、終末論的視点だけでは完全には解消されません。

神義論への批判と現代における動向

神義論は、その誕生以来、様々な批判にさらされてきました。

  • ヴォルテールによる批判: 1755年のリスボン大地震を経験し、ヴォルテールはライプニッツの「最善の世界」論を痛烈に批判しました。人間が経験する具体的な苦しみを軽視し、悪を正当化しようとする神義論の試みに懐疑的な見方を示しました。
  • ホロコースト以降の批判: 20世紀のホロコーストのような未曾有の大量虐殺は、伝統的な神義論では説明しきれない「絶対悪」として捉えられ、神義論そのものの可能性が問い直されるようになりました。レヴィナスは、アウシュヴィッツ以降、いかなる神義論も不可能であるとまで述べました。
  • 「反神義論(anti-theodicy)」の台頭: 現代においては、悪の問題を理論的に解決しようとする神義論の試みを放棄し、悪や苦しみの現実と向き合い、その意味を問うことに焦点を当てる「反神義論」的なアプローチも注目されています。これは、神が苦しむ人々と共にいる、あるいは神自身も苦しむという「共に苦しむ神」の概念などを模索するものです。

まとめ

神義論は、神の性質と悪の存在という根源的な矛盾に挑む、古くから続く哲学的・神学的問いかけです。その議論は多岐にわたり、それぞれが長所と短所を持っています。現代においては、理論的な解決だけでなく、苦しむ人々に寄り添い、悪の意味を問い直すという牧会的な側面や、より実践的なアプローチが重視される傾向にあります。

補足

今回取り上げたものは、伝統的なものであり、すべての視点に触れているわけではありません。また、神義論というテーマの性質上、それに対する「答え」は存在しません。今もなお考え続けられている難しいテーマでもあります。

そこで、神義論についての入門書としてのお勧めは、M.S.Mスコット、加納和寛訳『苦しみと悪を神学する:神義論入門』(教文館、2020年)です。

興味のある方は、下記の書評もご参照ください。


須藤英幸|【書評】M・S・M スコット著『苦しみと悪を神学する―神義論入門』加納和寛訳(『キリストと世界31号』

芳賀力|神義論は現実の生活とどんな関係があるのか?

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