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イスラエルの民はいつから神の「子」となったのか?

1. イスラエルの民は神が「父」であると知っていたのか?

イスラエルの民は、いつ神の子となったのか。

このような疑問を考えたことがある方は少なくないのではないでしょうか。確かに、創世記を読んでみても、アブラハムやその息子たちが神の「子」であるとは記されていません。それでは、アブラハムから始まったイスラエルの民はどのタイミングで神の「子」とされたのでしょか。

聖書の中でイスラエルの民が神の「子(בֵּן:息子)」として最初に言及されるのが、出エジプト記4章です。

あなたはパロに言いなさい、『主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。もし彼を去らせるのを拒むならば、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺すであろう』と」。

出エジプト記4章22-23節(口語訳聖書)

これはモーセが神から命じられた言葉で、エジプトで奴隷となっているイスラエルの民を解放する使命が与えられた時のものです。ここで、イスラエルの民ははっきりと神の「子」であると言われています。

これは解釈によっては、すでにイスラエルの民は神の子であり、このところで明らかになったと解することもできるでしょう。もしそうだとするなら、ここで浮かんでくる疑問は、果たしてイスラエルの民は神が「父」であり、自分たちは「子」であることを知っていたのか、ということです。もちろん、神が父であるという伝承が、ヨセフたちがエジプトに来てから、代々受け継がれてきたという可能性は否定できません。しかし、創世記ではそのようなアブラハムや息子たちが神の子であるとは言われていないことを考えるなら、少なくとも、エジプトで苦役に苦しむイスラエルの民が、自分たちが神の子であるとは知らないという前提で読む方がよいのではないかと思われます。

2. 奴隷から子へ

イスラエルの民がエジプトにいた時、彼らは「奴隷」でした。しかし、そこから脱出し、神の民としての旅が始まります。この点を踏まえるなら、「子」の対義語は「奴隷」ということになると言えます。奴隷だったものが、神の子とされるというのが、エジプト脱出の出来事です。

これには別の視点もあります。イスラエルの民がファラオの元で奴隷であったということは、要するに、神の長子であるイスラエルをファラオが我がものとしたことを意味しています。それゆえに、神はファラオ、ひいてはエジプト全土に、長子を失う痛みを負わせたのです。

したがって、エジプト脱出の出来事というのは、奴隷から子へ、またファラオの長子から神の長子への移行を意味していると言えるでしょう。ちなみに、この「奴隷から子へ」という考え方自体は、新約聖書においてパウロの言葉にも確認できます(ex.ガラテヤ4:5)。

3. 幼子としてのイスラエル

このように、イスラエルの民はエジプトから脱出した際、奴隷から子とされたと言えるわけですが、それは言い換えるならば、生まれたての幼子と言えます。ホセア書でこのように言及されています。

わたしはイスラエルの幼い時、これを愛した。わたしはわが子をエジプトから呼び出した。

ホセア書11章1節(口語訳聖書)

出エジプトの出来事が、神の子としての始まりであるなら、それはまさに幼子であることを意味します。

そのようにして、荒野での旅路が始まったわけですが、その序盤で与えられるのが「十戒」です(出エジ20章)。これはまさに、親が子どもに与える戒めのようです。子どもというのは、初め親の戒めの意味を全て理解しているわけではありません。よくある話ですが、大人になってから、あの時親の言っていたことの意味が分かったと感じることが多々あるのではないでしょうか。同じように、イスラエルの民に与えらえた最初の戒め(律法)も、ある意味シンプルです。しかし、その意味を考えながら、遵守していく中で、父なる神の真意に気づいていくことが期待されていたように思われます。

ちなみに、このことは新約聖書においては、クリスチャンの歩みと重ねられて理解されています。つまり、エジプト脱出の際、海の中を通った出来事は、水のバプテスマだと言うのです。それはクリスチャンとして、新しく生まれることを意味し、その時点でその人はまだ幼子です。その後、民が荒野を旅したように、クリスチャンもまた、信仰の旅路を進んでいくのです。

4. 「神の子」のあるべき姿を示すイエス・キリスト

このように、イスラエルの民は、自分たちが神の子であることを、直接的にか、間接的にか、知っていたということは考え得ることだと思いますが、しかし、そのことを正しく理解してはいなかったと言えそうです。

そして、そのようなところに、来られたのが、神の子とは何かを示すイエス・キリストでした。このことは、とりわけ『マタイの福音書』によって鮮やかに示されています。

 『マタイ』は、幼子イエスがエジプトから帰還するシーンで、あえてイスラエルの出エジプトについて語ったホセア11:1を引用します(マタイ2:15)。これは、かつてイスラエルの民が「神の子」としてエジプトから脱出したように、このイエスこそが、神の子としてのあるべき姿を示す人物であることを示していると言えます(真のイスラエル)。

また、40日間にわたる「荒野の試み」について記されていますが(マタイ4:1-11)、これはイスラエルの荒野での40年間を象徴しています。しかし、その結果は対照的です。この出来事は、神学的には、「イスラエルが失敗した神の子としての従順を、イエスが完全に成し遂げた」と理解されます。

5. 「神の子」の意味合い

このように、イエスは「真のイスラエル」、「真の神の子」を示したと言えるわけですが、ここである疑問が浮かびます。それは、果たしてイエスが示した神の子と、イスラエルが神の子であることは同じ次元なのかということです。というのも、イエスは御子として、ある意味では神に等しい存在でもあります。その一方で、イスラエルの民は「奴隷」から「子」とされたいわば「養子」です。

  • イスラエル: 恵みによる「養子」としての身分。
  • イエス: 本質において父と等しい、永遠の「実子(独り子)」。

大雑把に、神であるイエスと人間との決定的な違い(創造主と被造物)に注目するならば、ここでいうイエスが神の子であることと、イスラエルが神の子であるということには、違いがあると言えるかと思います。

しかし、その神の子としての特権を、イエスは十字架と復活を通して、人間に分け与える道を開かれました。そのことを神学用語では、「キリストとの結合(Union with Christ)」と言います。

6. 拡大:ひとりの「子」を通して、多くの「子ら」へ

新約聖書の後半(パウロ書簡やヨハネ文書)では、私たちが神の子となるプロセスが語られます。それは「良い行いをしたから」ではなく、「真の子(イエス)と一つになること」によって実現します。

A. パウロ神学:養子縁組(ヒュイオセシア)

パウロはローマ法的な「養子」の概念を用いました。

しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。 それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。

ガラテヤ人への手紙4章4-5節(口語訳聖書)

ここで「子たる身分」と訳されている言葉は、ギリシア語で「υἱοθεσία(ヒュイオセシア)」と言います。これは、パウロ書簡に見られる特徴的なフレーズです(Rom.8:15, 23; 9:4; Gal.4:5; Eph.1:5)。邦訳聖書では、「子とする」「子としてくださる」などと訳されていますが、ESVやNIVでは一貫して「adoption(養子)」と訳されています。

私たちがイエスを信じる時、法的にキリストの兄弟とみなされ、キリストが持つ「神の子としての相続権」を共有することになります。

B. ヨハネ神学:新生(新しく生まれる)

ヨハネは生物的な「誕生」のメタファーを用いました。

しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。

ヨハネによる福音書1章12節(口語訳聖書)

ここで神の子となる「力」と訳されている言葉は、ギリシア語で「ἐξουσίαν(エクソシア)」と言い、「特権」(新改訳2017)や「権能」(協会共同訳)などと訳されます(英訳では、right)。

このような誕生のメタファーは、イエスとニコデモとのやり取りで鮮明にされます。

3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。 

4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。 

5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。 

6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。 

7 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。 

8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。

ヨハネによる福音書4章3-8節(口語訳聖書)

聖霊によって霊的に「生まれる」ことで、神の性質を受け継ぐ者となることが強調されていると言えるでしょう。

神学的結論:砂時計の構造

この変遷を簡潔にまとめると以下のようになります。

  1. 旧約: イスラエルの民は神の子(長子)と呼ばれていましたが、そのことをイスラエルの民はよく理解していなかった
  2. 福音書: イエス・キリストが、真の神の子としてイスラエルに示された。 
     ↓
  3. 新約: キリストを信じる人々が、キリストと結びつくことで神の子とされた。 (霊による誕生、恵みによる養子)

旧約時代には、イスラエルの民という「広がり」がありましたが、その後、イエス一人に狭まり(点)、その後また広がるという、いわば砂時計の構造になっています。

7. 終わりに

以上のことから、イスラエルの民が「いつ」神の子とされたのかと言えば、聖書中の表現に限って言えば、「出エジプト」の段階であると言えます。

そもそも、「子」という表現と密接に関係するものとして重要なのは、「相続」です。エジプトを脱出した民にとっては、約束の地(嗣業の地)が与えられるゆえに、神の「子」である必要があります。親から相続するためには、その子である必要があるからです。

それでは、創世記の段階で、約束の地を目指して旅をしたアブラハムは「子」ではなかったのか、と思われるかもしれません。これが興味深いことで、創世記にはアブラハムらが神の子と呼ばれている箇所はありません。それは、イサクとヤコブも同様です。おそらく、ヤコブ(後のイスラエル)に与えられた土地を、イスラエルの民が相続するという段階になってから、イスラエルが「子」と呼ばれるようになったのではないかと考えられます。相続するためには「子」である必要があるのです。

このような神の子として相続するというテーマは、新約聖書にも通じるものです。ユダヤ人だけではなく、異邦人もまた、イエス・キリストによって神の子とされることで、神の祝福を受ける者となったのです。それは、神学的に言えば、キリストのうちにあり、御霊によって「父よ」と、神を呼ぶ信仰者たちが、神の子としての身分を受け継ぎ、正当な神の子(相続人)なのです。

本稿が、神の子について考える一助になれば幸いです。


「神の子」についてさらに学びたい方は下記の本もお勧めします。

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