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なぜ人は「聖書」を読むのか?—社会の進歩と聖書的価値の不変性 —

聖書は「世界最高のベストセラー」と呼ばれ、今もなお世界中で発行され続けています。しかしその内容は、2000年以上も前のはるか遠い時代の物語です。現代の私たちとは文化も風習も、価値観さえも異なる人々の記録であり、一見すると馴染みの薄いものに思えるかもしれません。それでも、クリスチャンであるか否かを問わず、聖書を愛読する人は絶えません。なぜ私たちは、これほどまでに古い書物を手に取るのでしょうか。

聖書が記された時代と現代を比べれば、その差は歴然としています。科学やテクノロジーの発達により、私たちはかつての人々が知り得なかった膨大な知識を手にしています。その意味において、社会が劇的な進歩を遂げたことは否定しようのない事実です。

しかし、一人の人間としての「成熟度」についてはどうでしょうか。現代を生きる「私」は、数千年前の「誰か」よりも人間として優れていると言い切れるのでしょうか。

確かに、社会の発展という恩恵にあずかることで、知的な水準は上がったかもしれません。しかし、一人の人間が持つ寛容さ、忍耐強さ、あるいは他者を愛する力といった精神的な成熟度において、現代人が昔の人を凌駕しているとは言い難いのが現実ではないでしょうか。

というのも、文明は知識を蓄積し継承できたとしても、人間の心の成長は、いつの時代も「ゼロ」から始まるからです。どの時代、どの社会にあっても、人は一人の無垢な幼子として生まれ、日々の体験を通じて一歩ずつ成熟を目指すプロセスを歩みます。この歩みそのものは、2000年前から何も変わっていないように思います。

そう考えると、現代人が聖書を読む理由が見えてきます。聖書が説く「隣人愛」や「赦し」、「仕えること」といったテーマは、どれほど社会が高度化しても、個々人が人生をかけて体得しなければならない普遍的な課題であると言えます。

人間は本質的な部分において変わらない——。この事実は、聖書が語る中心的な概念の一つである「罪」についても当てはまります。ここでいう「罪」とは、単なる道徳的な過ちではなく、本質的には「神との関係が損なわれている状態」を指します。その断絶が、結果としてあらゆる人間関係に不和をもたらします。だからこそ、愛や赦しについての学びは、現代の私たちにとっても切実な必要性を持ち続けていると言えます。

事実、多くの現代人が聖書に惹かれる背景には、一人の人間としてより良く生きたい、成熟したいという真摯な向上心があるように感じます。聖書の言葉は、単なる古びた教訓ではなく、今を生きる私たちの内面を照らす鮮烈な光として輝くのです。

また、一見すると、科学の進歩によって社会が便利になればなるほど、聖書が不要だと思われがちかもしれません。しかし、その逆だと言えないでしょうか。むしろ、聖書の必要性は増しているように思います。道具が進化しても、それを扱う人間の「心」が追いつかなければ、その道具は時に大惨事を引き起こす凶器となります。そのような事例は、枚挙にいとまがありません。

しばしば「科学は『How(いかに)』を教えても、『Why(なぜ)』は教えない」と言われます。聖書は科学的な思考を否定するものではありません。むしろ、三田一郎氏の著書『科学者はなぜ神を信じるのか』(講談社、2018年)に示されているように、科学と信仰は決して矛盾するものではないのです。三田氏は、自然に対して謙虚であるべき科学者の姿勢と、神を信じる姿勢とは、矛盾するものではないと言います(263-264頁)。真理を究めようとする先に、人知を超えた存在を見出すことは、むしろ知的な営みとして自然なことなのかもしれません。

また、何千年も研究され尽くしながら、なおも汲み尽くせない深みを持つ「神学」という営みに、私は驚嘆を禁じ得ません。聖書が現代においても色褪せないのは、それが単なる歴史書ではなく、人間が人間として生きるための根源的な問いに応え続けているからではないでしょうか。科学の光が届く範囲が広がれば広がるほど、その先に広がる未知の世界、すなわち「なぜ生きるのか」という問いに対して、聖書は今もなお鮮やかな指針を与えてくれるのです。

もしこのサイトに出会ってくださった方で、まだ一度も聖書を開いたことがない方がおられたなら、この数千年も読み継がれてきた「古くて新しい書物」を、ぜひ一度手にとってみていただきたいと思います。

聖書を手に取るために、特別な信仰心は必要ありません。ただ、日々の生活の中でふと感じる「なぜ人は赦し合えないのか」「本当の豊かさとは何か」といった、答えのない問いを携えてページをめくってみてください。そこには、現代の私たちと同じように、愛に悩み、人間関係に苦しみ、生きる意味を追い求めた人々の生々しい姿が描かれています。

また、聖書を読むという営みは、単に古い知識を得ることではありません。それは、人間という本質と向き合い、自分自身の心の奥底を見つめ直す体験とも言えるように思います。社会がどれほど加速度的に進歩し、効率化が進んだとしても、私たちの内面にある「孤独」や「渇望」を癒やす方法は、今も昔も変わっていません。

まずは、最初から最後まで読み通そうと気負う必要はありません。例えば、人間の複雑な感情が赤裸々に綴られた「詩篇」や、イエスの生涯について記された「福音書」など、気になる箇所から少しずつ触れてみると取り組みやすいかもしれません。

もうすぐ迎える新しい一年のおともとして聖書はいかがでしょうか。


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