朝井リョウ氏の『イン・ザ・メガチャーチ』(日本経済新聞出版、2025年)を読みました。刊行時から話題の一冊でしたが、先頃の本屋大賞の受賞を機に、改めて手に取りました。アイドル文化、推し活、陰謀論、性格診断。一見ばらばらに見える現代の風景が、一冊を通して、ひとつの主題のもとに束ねられていくのは圧巻です。そして、それらに通じる主題を一言で言えば、「物語」です。
アイドルの運営は、ファンに「物語」を与えることで、単なる消費者を「信者」に変えます。百万人のファンより、一万人の熱狂的な信者を作れ。信者が布教し、ファンを増やす。そのために必要なのは商品の質ではなく、感情移入を誘う物語です。人は物語に没入し、のめり込み、視野を狭めていきます。運営はそれを「視野狭窄」と呼び、まんまと策略に引っかかった者たちを、外側から冷ややかに見下ろします。
この構図だけなら、よくある現代批評と変わりません。しかし本書がすぐれているのは、同じ分析を、熱狂的になっている人々を見下ろしている運営の側にも返しているところでしょう。読み進めるうちに見えてくるのは、誰もが物語の外には立てない、という事実です。もっとも、これは明示的に示されているわけではありませんが、ファンを操る側にいるはずの運営もまた、金や成長や数字という、別の物語の中にいます。しかもその物語は、「これは物語ではなく、ただの現実だ」という顔をして現れています。それゆえに、最もたちが悪いのは、自分だけは物語の外にいると信じている人なのかもしれません。物語に取り込まれていることに、最後まで気づけないからです。たとえば、世の中はすべて嘘で塗り固められている、自分だけが真実を知っている、と確信する人がいます。けれどもその「みんな騙されている」という叫びは、ファンを見下ろす運営の言葉と、驚くほどよく似ているのです。
物語に囚われる側も、単純な愚かさが描かれているわけではありません。熱狂する者の多くは、自分が物語の中にいることを、心のどこかで知っています。知っていて、抜け出したいと願い、それでも抜け出せない。なぜなら、そのような麻薬的なものがなければ生きていけないほど、現実が苦しいからです。問題は、騙されやすさではありません。そのようなものがなければ耐えられないほどに、厳しい現実があるという、ただそれだけのことです。
ここに、本書の最も厄介で、しかし最も誠実な核心があるように思います。それは、視野狭窄が、根本的に否定されるべきものとして描かれていない、ということです。
本書には、自分のすべてを注ぎ込む人物が何人か登場します。ある者は、推しの喪失をきっかけに陰謀論へ傾倒し、お金も時間も感情も使い果たし、最後にようやく目が覚めます。注ぎ込む対象を失った視野狭窄は、行き場をなくして破滅へ向かう一方で、別の若者は、同じように何かに夢中になり、視野を狭めながらも、しかし以前の自分には見られなかった成長を実感し、楽しく生きています。同じ視野狭窄という行為が、一方では破滅として、他方ではある種の「救い」として描かれているのです。
その上で、本書が突きつけるのは、その2つは外から見分ける方法がない、ということです。視野を狭めて何かに夢中になる姿と、その狭さから抜け出そうともがく姿は、しばしば同じ風景の中に並んで現れます。物語の終盤、ある人物は、視野が狭くなるのは、何かに囚われたからではなく、誰かを本気で大切に思ったからではないか、と思い至り、視野狭窄を愛の別名として読み替えていきます。
このように、本書においては、「視野狭窄」が一面的に問題視されているわけではありません。それは確かに、ある面においては「楽しそう」に見えるのです。しかし、楽しそうに見えるその姿が、破滅の途上ではないと、誰に言えるでしょうか。救いと破滅は、外形だけでは、区別がつかないものです。
この問いは、信仰に生きる者にとって、他人事ではありません。
本書の中盤、ある人が「チャーチマーケティング」を語る場面があります。古めかしさを脱ぎ、非日常的なライブ感覚で若者を集め、居場所と仲間を与える教会。行き場のない者を取り込むことに成功した、現代アメリカ社会の巨大な教会。その会話の中で聞こえてくる言葉があります。人は完全な無宗教では生きられない。何かを信じていたほうが楽だ。性格診断の流行もそう。目の前の現実より診断を信頼する。そのような道標が欲しい、何でもいいから。そんな言葉です。
本書のタイトル『イン・ザ・メガチャーチ』が指しているのは、おそらくこのことでしょう。私たちは皆、巨大な教会の中にいる。アイドルも、陰謀論も、性格診断も、同じ構造に過ぎない。そして信仰もまた、その「何でもいい道標」のひとつとして数えられてしまう。目に見えない神を信じ、そこに自分を注ぎ込み、人生を賭ける。それは、外から見れば、立派な視野狭窄です。運営の言葉で言えば、まんまと引っかかっている。信仰者の姿は、本書が描くファンの姿と、外形においては、どこも変わっていないのではないか、という強烈なメッセージです。
このように聞くと、本書が示す現代社会の現実は、非常に鋭いどころか、刺さるようなものがあると思います。しかし、信仰者にとって、ここで提示されている問いと向き合うことは大事なことではないでしょうか。つまり、その問いとは、キリストへの信仰は、救いなのか、それとも、より洗練された視野狭窄なのか、ということです。
まず、率直に認めるべきことがあります。それは、聖書は案外、私たちの求めるものを与えてくれない、ということです。たとえば今、病で苦しいと訴えたところで、聖書がそれを治してくれるわけではないでしょう。なぜこのような苦難があるのか、と問いかけても、その意味をすぐさま明かしてくれるわけでもありません。実際、答えや癒やしを求めて教会の扉を叩く人は多いですが、その多くは、失望して帰っていくという現実があります。
そして、このことは、聖書自身が、隠さずに描いていることでもあります。よく知られているのが、『ヨブ記』です。ヨブは義人であり、正しい人でした。しかし、ヨブに災いが降りかかり、友人たちは、それはお前が罪を犯したからだと、その苦しみに意味を与えようとします。それに対して、ヨブは潔白を主張し続けます。やがて、嵐の中から神が現れますが、神はヨブの問いに答えません。なぜ苦しむのか、その理由は最後の最後までヨブに明かされることはないのです。これは、忍耐すればすべてが2倍になるという慰めの物語ではありません。人間は理由もなく苦しむことがある、という現実を、覆い隠さずに突きつける書です。
答えや意味をひたすら求める社会の中で、世界はあまりにも気前よく答えや意味を与えます。あなたの性格はこういう型だから。世界の裏にはこういう黒幕がいるから。そのようにして、人を物語に引き込もうとするのです。このように安易な答えこそ、現代という巨大な教会が量産している商品に他なりません。聖書がしばしば沈黙するのは、そのような安直な慰めを拒んでいるからなのだと思います。
それでは、聖書、そして、教会は、私たちに何を示しているのでしょうか。
ここで取り違えてはならないのは、「答えを与えないこと」と「見捨てること」は、まったく別だということです。聖書が示すのは、私たちの苦しみを知っていてくださる方がいる、ということではないかと思います。そして何より、十字架の上で、現実に苦しまれた方がおられる、ということではないかと思います。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。神の子自身が、答えの与えられない苦しみの只中で叫んだ時、天は沈黙しました。聖書は、苦しみの理由を説明してはくれません。ですが、その苦しみのただ中に、自ら降りてきて、共にいてくださる方がいる。聖書が示すのは、苦しみへの答えではなく、苦しむ私たちの傍らに立つ、その方ご自身なのです。
ここに、本書で描かれるこの世界と聖書が語る信仰とを分けるものがあるように思います。
本書が鮮やかに示しているのは、突き詰めれば、人間が自分のために作り出した物語です。運営が設計し、消費者を信者へと変えていく物語。けれども、その中で生きるファンの側から見れば、それは、自分の渇きを埋めるために、自分が選び、自分を注ぎ込んでいく物語でもあります。そしてその物語の中心にいるのは、その物語によって満たされたい、自分自身です。
だからこそ、その物語を支える燃料は、自分の方から絞り出すしかありません。注げば注ぐほど、人はすり減っていくものです。もちろん、注いだ分だけ、何かが返ってくることもあります。アイドルであれば、握手会があり、巡業があり、ステージからの呼びかけがあるでしょう。しかし、そのようなリターンは、結局は「物語」の内側で循環しているだけで、物語そのものを破ってはくれません。人は、自分の作った物語に注ぎ、その物語から受け取り、閉じた円環の中で、静かに消耗していきます。そして、その物語の対象を失えば、その円環ごと崩れてしまいます。自分が作り、自分が中心にいる物語は、結局、自分の手のひらの大きさしかないのです。これこそが、視野狭窄を破滅へと向かわせる正体なのではないかと思います。
そして、重要なのは、信仰もまた、ひとつの物語だということです。しかし、その物語は、決定的なところで向きが異なります。それは、誰が物語を作り、誰がその中心にいるか、という違いです。
なぜなら、信仰においては、私が物語を作り、自分をその中心に据えるのではないからです。すでに進行している神の大きな物語の中へ、私の方が招き入れられるのです。創造から贖い、そして終わりへと向かう物語。その中心にいるのは、私ではなく、私のために自分を注ぎ尽くす神の方です。私はその物語に、主人公としてではなく、招かれた客として、愛される者として、迎えられます。
推し活において、人が偶像(アイドル)を物語の中心へと推し上げるのなら、信仰において推しているのは、神の方です。私たちが神を愛する前に、神が私たちを愛しておられる。私たちが物語を作って自分を満たそうとするより先に、神の方が、私たちのために自分を注ぎ尽くし、その物語の中へ私たちを招いておられる。十字架とは、ファンが推しに注ぎ込むあの構造の、ちょうど逆向きの出来事だと言えます。人が神に自分を使い切るのではなく、神が人のために自分を使い切られた。本書のある人物の言葉を借りるなら、神のほうが先に、私たちのために脳を溶かしてしまっている、のです。
この向きの違いが、すべてを変えます。自分が作り、自分が中心の物語は、自分の手のひらの外へ出られないという意味で、閉じています。だから、自分から絞り出す愛は、絞り出すほど減っていき、やがて空になります。しかし、招かれて入る神の物語は、自分より大きなものへと開かれています。そこでは、注ぐことがまず先にあるわけではありません。すでに注がれていることに気づくことが先にあるのです。その点において、私たちの愛は、起点ではなく、応答です。だからこそ、使い切って枯れるのではなく、すでに満たされたところから、あふれていくのではないでしょうか。確かに、外から見れば、どちらも同じ視野狭窄に見えるかもしれません。同じように何かに夢中になり、同じように自分を明け渡しているわけです。しかし、自分の作った物語に自分を注ぎ込むのか、与えられた物語に招かれて生かされるのか。その向きの違いが、一方を破滅へ、他方を救いへと、分けていくように思います。
もっとも、このように言ってしまえば、ずいぶん簡単なことのように聞こえます。私たちが自分自身を使い切って神を推すのではなく、神ご自身の方が、まず先に私たちのために命を使い切り、私たちを愛してくださった。しかし、それが自分の身に起きていることとなると、話はまるで違って聞こえてくるかもしれません。病床で、喪失の中で、なぜ神は黙っておられるのかと問うとき、この苦しみの中ですでに神が共におられるのだと、そのように信じられる人が、どれだけいるでしょうか。まず先に愛されているというメッセージは、頭で理解することと、苦しみの只中で受け取ることとの間には深い隔たりがあるように思います。本書の人物たちが、自分の立っている場所の本当の意味に気づかぬまま、ある者は安らぎ、ある者はもがいていたように、私たちもまた、自分が今、救いと破滅のどちらに近いのか、その渦中ではなかなか分からないものなのかもしれません。
そして、この論は、教会への免罪符にはなりません。現実の教会は、しばしばヨブの友人たちの側に立ってきたのではないかと思います。苦しみには理由があるはずだと、安易な意味を押しつける誘惑。答えや意味を求める社会の中で、教会自身が、最も気前よく答えを差し出してしまう危うさ。問われているのは、教会が、自らの語る物語を絶えず吟味し、答えを安売りせず、苦しむ人と共に立ちつづけられるかどうかではないでしょうか。
本書は、現代において「物語」が果たす役割を、これほど執拗に、同時に誠実に描いた小説だと感じました。視野狭窄を断罪せず、かといって手放しに肯定もせず、救いと破滅が見分けがたく隣り合う場所に、読者を立たせたまま閉じられています。そのような不気味にも感じる、しかし現実に巣食う不安が浮き彫りになった今、改めて思うことは、確かに、私たちは何かを推さずには生きられないという現実です。それを自覚していようが、していまいが、結局人は何かを推しているのです。それはその人の価値観を形成し、その人のポリシーとなり、その人の信念となります。そして、それらは否定されるものではありません。その上で、考えたいことは、聖書が教える信仰とは、私が神を推すこと以上に、神が私を推していてくださる、というメッセージだということです。そのことを本当に理解するのは、決して簡単なことではありません。しかし、その向きの違いだけが、同じ視野狭窄を、破滅ではなく救いへと変えていくのだと思います。
聖書の中でも「ヨブ記」は広く親しまれてきました書の一つです。岩波文庫で「ヨブ記」が刊行されていることも、その証でしょう。ぜひこの機会に読まれてみるのはいかがでしょうか。言わずもがな、イン・ザ・メガチャーチもです。
