「素直に読む」への疑問
「聖書を素直に読む」という言い方があります。これは多くの場合、ほめ言葉として使われます。難しい理屈をこねず、書かれていることをそのまま受け取る読み方は、信仰者のあるべき姿のように思えます。
しかし最近、私はこの「素直さ」に疑問を持つようになりました。きっかけは、マタイによる福音書25章31〜46節の「羊と山羊のたとえ」として知られる箇所についての、ある解釈を知ったことです。それは、終わりの日に諸国民が裁かれる基準は、イスラエルに対してどうふるまったかである、という読み方でした。つまり、イスラエルによくした者は羊、そうでない者は山羊ということになります。この解釈を聞いて、私はたいへん驚きました。
この解釈をとる人々は、自分たちは聖書を字義どおりに、つまり素直に読んでいると考えています。けれども聖書テキストを注意深く読むと、この読み方はテキストそのものから出てきたものではなく、ある神学的な枠組みを持ち込んだ結果であることが見えてきます。本稿では、この箇所を手がかりに、「素直に読む」とはどういうことかを考えます。先に結論を述べておくと、私はこの解釈は退けられるべきものだと考えています。
マタイ25章31〜46節の場面
この箇所は、イエスがオリーブ山で語った終末についての説教(24〜25章)の締めくくりにあたります。人の子が栄光のうちに来て王座につき、すべての国民がその前に集められます。王は、羊飼いが羊と山羊を分けるように、人々を右と左に分け、右にいる人々に御国を受け継ぐよう告げます。その理由は、王が飢えていたときに食べさせ、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに訪ねたからです。
右にいる人々は驚いて問い返します。
主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
マタイによる福音書25:37(口語訳)
王の答えはこうです。
あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。
マタイによる福音書25:40(口語訳)
左にいる人々との間でも同じやりとりが繰り返され、彼らもまた、いつそのようなことがあったのかと驚きます(25:44)。この場面の解釈で問われてきたのは、主に二つの点です。すなわち、「すべての国民」とは誰か、そして「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者」とは誰か、という点です。
イスラエルへの態度で裁かれるという解釈
この解釈の背景には、ディスペンセーション主義と呼ばれる神学の体系があります。神の救いの歴史をいくつかの「時代(ディスペンセーション)」に区分し、イスラエルと教会(ペンテコステ以降のキリスト者の群れ)を、それぞれ別の約束を受けた神の民として区別するのが特徴です。19世紀に始まり、とりわけアメリカの福音主義の教会に広く影響を与えました。
マタイ25章についての古典的なディスペンセーション主義の解釈を、Keenerは次のようにまとめています。
The older dispensational scheme viewed this passage as the judgment of the nations based on their treatment of Israel.
古いディスペンセーション主義の図式は、この箇所を、諸国民がイスラエルをどう扱ったかに基づく裁きと見なしていた。
Craig S. Keener, Matthew, vol. 1, The IVP New Testament Commentary Series (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 1997), Mt 25:31–46.
それでは、この解釈は具体的にどのような内容なのでしょうか。Turnerは、この立場の論者としてToussaint(1980年)とWalvoord(1974年)を挙げ、その内容を次のように説明しています。この立場では、この場面は死者を含む全人類の裁きではなく、キリストの再臨の時に地上に生きている諸国民の裁きだとされます。そして基準は、終末の大患難の時代に、ユダヤ人の「残りの者」をどう扱ったかだとされます(Turner, Matthew and Mark, p. 330)。
ここで区別しておきたいことがあります。それは、この古典的な解釈が「兄弟」と見ているのが、将来の大患難の時代に迫害を受けるユダヤ人だということです。これに対して私が耳にしたのは、それを現代のイスラエル国家にあてはめ、今日イスラエルを支持するかどうかが羊と山羊を分ける、とする読み方でした。後者は前者からさらに一歩進んだ解釈です。以下では、両者に共通する前提、すなわち「裁きの基準はイスラエルへの態度である」という点を検討します。
ユダヤ教の審判観とイエスの語り直し
この解釈に、まったく根拠がないわけではありません。というのも、旧約聖書とユダヤ教の文献には、終わりの日に諸国民が集められ、イスラエルへの扱いによって裁かれるという思想がたしかにあるからです。たとえば、ヨエル書には次のようにあります。
わたしは万国の民を集めて、これをヨシャパテの谷に携えくだり、その所でわが民、わが嗣業であるイスラエルのために彼らをさばく。
ヨエル3:2(口語訳)
問題は、マタイ25章がこの伝統的な審判観をそのまま繰り返しているのかどうかです。
Franceは、32節ですべての国民が裁きのために集められる言葉づかいがヨエル書3章を思い起こさせると指摘したうえで、両者の違いを次のように述べています。
In Joel the judgment is specifically of the Gentiles in relation to their mistreatment of Israel, but there is no such restriction here, and in the light of the judgment on Jerusalem in ch. 24 it seems likely that Jews and Gentiles together are called to this final assize (see on 28:19 for “all the nations,” and cf. 24:9, 14).
ヨエル書では、裁きはとくに異邦人に対するもので、彼らがイスラエルを虐げたことに関わっている。しかしここにはそのような限定はない。24章のエルサレムへの裁きに照らせば、ユダヤ人と異邦人がともにこの最後の審判に呼び出されると考えるのが妥当であろう(「すべての国民」については28:19の注解を参照。24:9、14も参照)。
R. T. France, The Gospel of Matthew, New International Commentary on the New Testament (Grand Rapids: Eerdmans, 2007), p.961.
Franceはまた、ダニエル書7章では天の玉座に座していたのが神ご自身であったのに対し、ここではその座に人の子がついていると指摘しています(France, The Gospel of Matthew, p. 960)。Keenerも、ユダヤ教の伝統では最後の裁き主はふつう神ご自身であり、イエスがここでその役割を担っていることを指摘しています。
つまりマタイ25章は、ヨエル書と同じように諸国民が集められる裁きの場面を描きながら、二つの点を変えています。裁きの座につくのは神ではなく人の子イエスであり、裁きの基準も、もはやイスラエルへの扱いには限られていません。そうだとすれば、「イスラエルへの態度が基準だ」とする解釈は、マタイ25章を読んでいるようでいて、実際にはヨエル書の基準をそのまま当てはめていることになります。イエスが新しく語り直した点を読み落とし、もとのヨエル書の枠組みに戻してしまっているのです。
「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者」
では、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者」とは誰でしょうか。手がかりは、マタイ福音書の中でイエスが「兄弟」という言葉をどう使っているかにあります。
そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
マタイによる福音書12:49-50(口語訳)
復活のイエスも、弟子たちのことを「兄弟たち」と呼んでいます(28:10)。マタイにおいて、イエスの「兄弟」とは血縁や民族のつながりではなく、イエスに従う弟子たちのことです。
「最も小さい者」と訳されたギリシア語エラキストス(elachistos)は、「小さい」(ミクロス、mikros)の最上級です。この「小さい者」も、マタイでは弟子を指して使われます。イエスは弟子たちを遣わすにあたって、あなたがたを受けいれる者はわたしを受けいれるのだと語り(10:40)、続けて次のように述べています。
わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない。
マタイによる福音書10:42(口語訳)
今回読んだTurner、Morris、France、Keenerは、いずれもこうした用法から、「兄弟」をイエスの弟子と理解しています。Keenerは、25章35〜36節に挙げられた飢え、渇き、旅、裸、病気、投獄が、10章で予告された宣教の苦難や、パウロが語る使徒の苦難と重なることに注意を向けています。一方Franceは、こうした苦難は宣教者に限られたものではなく、人間の最も基本的な必要だとしています。
もっとも、これは「キリスト者にだけ親切にすればよい」という意味ではありません。Morrisは弟子説をとりつつ、こう付け加えています。
The former is probably the way we should understand the words, but that does not give the follower of Jesus license to do good deeds to fellow Christians but none to outsiders.
おそらく前者(弟子説)がこの言葉の理解として正しいだろう。しかしそれは、イエスに従う者に、仲間のキリスト者には善を行い、外の人々には何もしないという許可を与えるものではない。
Leon Morris, The Gospel according to Matthew, Pillar New Testament Commentary (Grand Rapids: Eerdmans; Leicester: Inter-Varsity Press, 1992), p.639.
Keenerは、ディスペンセーション主義の解釈に対して、もう一つの問題も指摘しています。
Because the passage explicitly declares that this judgment determines people’s eternal destinies (25:46), it cannot refer to a judgment concerning who will enter the millennium, as in some older dispensational schemes (Ladd 1977:38; compare Ladd 1978b:98–102).
この箇所は、この裁きが人々の永遠の運命を決めるものだと明言しているので(25:46)、一部の古いディスペンセーション主義の図式のように、誰が千年王国に入るかに関する裁きを指すことはありえない。
Craig S. Keener, Matthew, vol. 1, The IVP New Testament Commentary Series (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 1997), Mt 25:31–46.
さらに、この箇所を現代の国家にあてはめる読み方には、別の困難もあります。聖書テキストが語っているのは、飢え、渇き、病み、獄につながれている「最も小さい者」です。それを軍事力を持つ一つの国家と同一視するとき、テキストが強調している「小ささ」そのものが失われてしまいます。
「いつ、わたしたちは」という驚き
この場面でもう一つ見落とせないのは、裁かれる人々が皆、驚いているという点です。右にいる人々は「主よ、いつ、わたしたちは」と問い、左にいる人々も同じように問います。どちらの側も、自分の行いがイエスに対するものだったとは知りませんでした。
Franceは、この驚きから、彼らの行為がどのようなものだったかを次のように説明しています。
They have helped, or failed to help, not a Jesus recognized in his representatives, but a Jesus incognito. As far as they were concerned, it was simply an act of kindness to a fellow human being in need, not an expression of their attitude to Jesus.
彼らが助けた、あるいは助けなかったのは、その代表者のうちに認められたイエスではなく、身を隠したイエスであった。彼らにとってそれは、困っている同じ人間への親切にすぎず、イエスに対する態度の表明ではなかった。
France, The Gospel of Matthew, p. 959.
Morrisは、この驚きが救いと行いの関係についても大切なことを示していると言います。
It shows clearly that their salvation did not depend on their good works; for in doing those works they must have known that they were doing things that other people did not do.
それは、彼らの救いが善い行いにかかっていたのではないことをはっきり示している。もしそうなら、その行いをしているとき、彼らは自分が他の人々のしないことをしていると知っていたはずだからである。
Morris, Matthew, pp. 638–639.
この点を、イスラエルを基準とする読み方と並べるとどうなるでしょうか。もし裁きの基準が「イスラエルを支持するかどうか」であるなら、その基準は前もって分かっていることになります。人は自分の立場を自覚したうえで、それを選び取ることができます。そのとき右にいる人々には、驚く理由がありません。左にいる人々も同様です。
しかし、実際の聖書テキストでは、裁きの基準を前もって知っていた人は、右にいる人々にも左にいる人々にも一人もいません。驚きはこの場面の要です。イスラエルへの態度を基準とする読み方は、この「驚き」と両立しないのです。
聖書が語る「素直」
ディスペンセーション主義は、聖書を字義どおりに解釈することを重んじる体系として知られています。しかしマタイ25章について見てきたように、その「字義どおり」の読みは、大患難、再臨、千年王国と続く終末の出来事の順序や、イスラエルと教会を区別する前提に支えられています。
しかし、マタイ25章31〜46節には、ユダヤ人の「残りの者」も千年王国も出てきません。千年王国はマタイ福音書全体を見ても登場せず、ヨハネの黙示録20章に由来する考えです。これらは、聖書のほかの箇所から組み立てられた体系を、この箇所に重ねて読んだ結果なのです。つまり、自分では書かれているとおりに読んでいるつもりでも、実際には、あらかじめ持っている考え方に合わせて聖書を読んでいることがあるのです。
もちろん、聖書をほかの箇所に照らして読むこと自体は誤りではありません。本稿でも、ヨエル書やマタイ福音書のほかの箇所を手がかりにしてきました。問題は、その箇所の言葉そのものが呼び起こしている箇所を参照しているのか、それとも、その箇所に書かれていない要素を外から補い、書かれていること(たとえば46節の「永遠」)よりも優先させてしまうのか、という点にあります。
日本語の「素直」には、逆らわない、言われたとおりにする、という含みがあります。「素直な子」と言うときの「素直」です。では、聖書が「素直」と言うときも、同じ意味なのでしょうか。新改訳2017の新約聖書で「素直」という言葉が使われているのは、マタイ10章16節、使徒17章11節、ヤコブ1章21節の三箇所です。新共同訳も、この三箇所をすべて「素直」と訳しています。ところが原語を確かめると、三つはそれぞれ別のギリシア語であり、どれも「逆らわない」という意味ではありません。
わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。
マタイによる福音書10:16(口語訳)
ここで「素直」と訳されたアケライオイ(akeraioi)は、「損なわれていない」「混じりけのない」といった意味を持つ語です。新約聖書では道徳的な意味で用いられ、「純真な」「悪に染まっていない」ことを表します。聖書協会共同訳はこれを「無垢」と訳し、脚注に別訳として「素直」を挙げています。注目したいのは、この言葉が「へびのように賢く」と対になっていることです。イエスは弟子たちを狼の中に遣わすにあたって、この二つを同時に求めています。続く17節は「人々に注意しなさい」という警告です。
この語がどちらを向いているのかをはっきり示しているのが、ローマ人への手紙16章19節です。パウロはローマの信徒たちの従順を喜んだうえで、「しかし、わたしの願うところは、あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことである」と述べています(口語訳)。この「うとく」がアケライオスの訳です。従順であることと、善を見分けるさとさとが、ここでは一緒に求められています。マタイ10章16節で「素直」と訳された語を、パウロは悪に対して用いているわけです。つまり、聖書が語る素直さは、悪に対しては染まらないことであって、言われたことを何でも受け入れることとは方向が逆なのです。
ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。
使徒行伝17:11(口語訳)
使徒17章11節が語っているのは、人が語る教えに対する素直さです。ここで「素直」と訳されたギリシア語エウゲネステロイ(eugenesteroi)は、もともと「生まれのよい」という意味の語です。そこから、育ちのよい人にふさわしい態度、つまり「気高い」「心の広い」という意味でも使われます。代表的なギリシア語辞典であるBDAGは、この箇所の意味を「心の広い(open-minded)」と説明しています。聖書協会共同訳も、ここは「素直」と訳しています。しかも、ベレアの人々が聖書に照らして確かめたのは、ほかならぬパウロの教えでした。彼らは使徒の語る教えを心から受け入れ、そのうえで、本当にそのとおりかを日々聖書で確かめました。ルカはその姿勢を「素直」と呼んでいるのです。
だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。
ヤコブの手紙1:21(口語訳)
ヤコブ1章21節が語っているのは、神の御言葉に対する素直さです。ここで「すなおに」と訳されているのは、エン・プラウテーティ(en prautēti)です。プラウテースは、自分を必要以上に重く見ない態度を表す語で、「柔和」「謙遜」などと訳されます。BDAGはこの箇所の意味を「謙遜をもって(with humility)」と説明しており、聖書協会共同訳の「謙虚に」はこれに近い訳です。直前の19〜20節では、聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くあるよう勧められ、直後の22節では、御言葉を聞くだけで行わない者は自分を欺いていると戒められています。つまり、ここで素直さの反対にあるのは、問うことではなく、怒りと、聞くだけで行わない自己欺瞞です。御言葉に対する素直さとは、怒りや高ぶりを捨てて御言葉に耳を傾け、それを生きることです。
このように、聖書における素直さは、何に対する素直さかによって求められる態度が異なると言えます。悪に対しては、染まらないこと。人が語る教えに対しては、心から受け入れつつ、聖書に照らして確かめること。神の御言葉に対しては、へりくだって聞き、それを行うこと。どれも「考えずに受け入れる」こととは違います。日本語の「素直」が持つ「逆らわない」という響きが、「聖書を素直に読む」という言い方の受け取られ方に影響している可能性はあるように思います。
そして、ここで見落とせないのは、聖書の解釈は、聖書そのものではなく人が語る教えだということです。ですから、ある解釈を聖書に照らして確かめることは、聖書の言う素直さに反するものではありません。むしろ、ベレアの人々がしたように、それこそが素直さの実践なのです。
Turnerは、マタイ24〜25章を読み終えるにあたって次のように述べています。
When Bible teachers of equal scholarship and devotion cannot agree on the particulars of a passage, one should shy away from dogmatism and keep an open mind toward further instruction.
同じだけの学識と敬虔を持つ聖書教師たちが、ある箇所の細部について一致できないときには、独断を避け、さらに教えを受けることに心を開いておくべきである。
Turner, Matthew and Mark, p. 331.ディスペンセーション主義という体系全体を論じることは、本稿の範囲を超えます。しかし少なくとも、マタイ25章をイスラエルへの態度で裁かれる場面として読むことは、聖書テキストに照らして支持できません。ユダヤ教の審判観との比較、マタイにおける「兄弟」と「小さい者」の用法、そして裁かれる人々が皆、裁きの基準を知らずに驚いていたことは、いずれもこの読み方とは別の方向を指しています。
聖書を「素直に」読むことは、いつの間にか疑う余地のない美徳のように思われている、ということがあります。しかし、マタイ25章の例が示すように、自分は素直に読んでいるという思いは、かえって自分の読み方を問い直さない理由になることがあります。聖書が語る素直さは、確かめずに受け入れることではなく、聖書に照らして確かめることでした。そうであれば、ある解釈を鵜呑みにせず、立ち止まって考えることは、聖書を素直に読むことと矛盾しないはずです。
ぼくどくメモ
この解釈を初めて聞いたとき、私が驚いたのは結論の奇抜さだけではありませんでした。その解釈が、聖書を素直に読んだ当然の結果として語られていたことにも驚きました。そこには、素直に読んでいる自分たちが正しく、そう読まない人は聖書に対して素直でない、という含みが感じられたのです。
そのとき思い浮かんだのは、「福音派」という言葉のことです。近年のアメリカの福音派の影響もあって、この言葉はいわくつきの言葉になってしまいました。極端な終末論に立っているわけではない人々まで、この言葉でひとまとめに見られることがあります。この点については、以前の記事「終末論は本当に「ヤバイ」のか」でも触れました。「素直」という言葉も、これと似たところがあるのかもしれません。素直に読めば、この結論になるのは当然ではないか。そのように、自分の読み方を疑う余地のないものとして示すために、この言葉が使われているように感じることがあるのです。
振り返ってみると、私自身も「聖書にこう書いてある」と言うとき、自分がどの枠組みで読んでいるのかを意識していないことがあります。素直に読むことと、自分の前提を問わずに読むことは、外から見ると区別がつきにくいものです。
今回、手元の注解書を読み比べて、聖書を重んじる注解者たちがこの箇所をめぐって丁寧に議論を重ねていることを確認しました。その丁寧さは、聖書への不信ではなく、聖書に対する敬意の表れだと思います。考え、迷い、確かめることも、聖書を素直に読むことの一部だと私は考えています。
参考文献:R. T. France, The Gospel of Matthew, New International Commentary on the New Testament (Grand Rapids: Eerdmans, 2007); Leon Morris, The Gospel according to Matthew, Pillar New Testament Commentary (Grand Rapids: Eerdmans; Leicester: Inter-Varsity Press, 1992); David Turner and Darrell L. Bock, Matthew and Mark, Cornerstone Biblical Commentary 11 (Carol Stream, IL: Tyndale House, 2005); Craig S. Keener, Matthew, IVP New Testament Commentary (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 1997); Frederick W. Danker, ed., A Greek-English Lexicon of the New Testament and Other Early Christian Literature, 3rd ed. (BDAG) (Chicago: University of Chicago Press, 2000)
