出版から半年が経った今でも、加藤喜之著『福音派―終末論に引き裂かれるアメリカ社会』(中公新書、2025年)に関する話題が尽きません。最近では、「福音派」について、わざわざ教会に質問に来られる方もおられるくらい、クリスチャンではない方にも広く一般的に浸透しているように感じます。本書は、アメリカの福音派が政治や社会にどのような影響を与えてきたかを、終末論という切り口から描き出した力作であり、多くの読者の関心を集めているようです。

出版当時、わたしが懸念していたことは、「福音派」という言葉が一人歩きすることでした。そして実際、「福音派は過激」という印象が広がっている感は否めません(過去の記事についてはこちらをご参照ください)。

もっとも、著者の加藤氏は、本書やメディアでのインタビュー等において、「福音派」と一口に言っても非常に幅があることを丁寧に説明されていますし、学術的にも誠実な姿勢で書かれた本だという印象を受けます。

その上で、私がもうひとつ気になっているのは、本書をきっかけに「終末論ってやっぱり怖いものなんだ」「終末論=過激な思想」という印象が広まっていないだろうか、ということです。

確かに、終末論が政治利用されたり、人々を分断するために用いられたりすることは問題です。しかし、だからといって「終末論」そのものが危険な思想であるということにはなりません。実際、加藤氏自身も「まえがき」の中で、使徒信条に触れながら、キリストの再臨や最後の審判がキリスト教の基本的な教えであることを説明しています。本書が問題にしているのは、終末論そのものではなく、それが特定の政治的世界観と結びついて暴走するときに何が起きるか、ということです。

むしろ、キリスト教の信仰にとって、終末の希望は欠かすことのできない根幹的な要素です。

今回は、そのことについて少し書いてみたいと思います。

使徒信条に刻まれた終末の希望

キリスト教の信仰を最もコンパクトにまとめたものとして、「使徒信条」があります。プロテスタント教会でもカトリック教会でも広く用いられてきた、いわば信仰のエッセンスです。

その中に、こういう一節があります。

かしこより来たりて、生ける者と死にたる(死ねる)者とを審きたまわん。

「かしこ(彼処)」とは「あそこ」という意味の古い日本語です。キリストは「あそこ」、すなわち天から再び来られる。『使徒の働き」には、天に上げられたイエスについて、白い衣を着た二人の人が弟子たちにこう告げたと記されています。「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります」(使徒1:11)。

イエス・キリストがふたたび来られ(再臨)、最後の審判を行われる。これは使徒信条という、キリスト教の最も基本的な信仰告白の中に組み込まれている内容です。つまり、終末論はキリスト教の「オプション」ではありません。信仰の根幹です。

さらに使徒信条の結びにはこうあります。

からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。

死者の復活と永遠の命への希望。これもまさに終末論的な信仰告白です。

キリスト教は、その最も古い時代から、世界の歴史に終わりがあること、キリストが再び来られること、そして神がすべてを正しく裁かれることを信じてきました。これは一部の過激なグループの特殊な教えではなく、全キリスト教に共通する信仰なのです。

ここで一つ大事なことを押さえておきたいのですが、「さばき」と聞くと怖いイメージを持つ方もいるかもしれません。しかし、さばきには「希望」という側面があります。そもそもさばきとは、善悪をはっきりさせることです。悪をなす者にとっては厳粛なものですが、苦しみの中にある者、不正に虐げられている者にとっては、その潔白が証明される日でもあるのです。ヨハネの黙示録は、さばきの先にある世界について「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」(黙示録21:4)と語っています。悲しみや痛みがこの世から消え去る日が来る。それは、さばきがあるからこそ約束されている希望です。

新約聖書の最古の書物が語る終末

このことは、新約聖書そのものに遡って確認することができます。

新約聖書の中で最も古い文書と考えられているのが、パウロが書いた第一テサロニケ書簡です。紀元50年頃に書かれたこの手紙は、まさに終末への期待に満ちています。

新約聖書学者の山口希生氏は、この書簡に含まれる二つの祈り(Iテサ3:11-13、5:23)を分析し、パウロの祈りの根底にあるのが終末論であったことを論じています。山口氏によれば、この二つの祈りに共通するキーワードは「来臨(パルーシア)」であり、パウロの祈りの主目的は、目前に迫っていると信じていた主イエスの来臨にテサロニケの信徒たちを備えさせることにありました(山口希生「第一テサロニケ書簡におけるパウロの祈りと終末論」)。

パウロは祈りの中で、テサロニケの信徒たちが「私たちの主イエスの来臨の時に、神であり私たちの父である方の前で聖性において非の打ちどころのない」者となるようにと願っています(Iテサ3:13参照)。また、「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖別し、私たちの主イエス・キリストの来臨の時に、霊と魂と体を非の打ちどころのない完全なものとして保ってくださいますように」と祈っています(Iテサ5:23参照)。

ここで注目すべきは、パウロにとって終末論とは、恐怖を煽るためのものではなかったということです。それは、祈りと結びついたものでした。信仰者の歩みを整え、愛を深め、聖さを求めるための動機づけとして、キリストの来臨への希望が語られていたのです。

終末論は「愛」に向かう

山口氏の論考で興味深いのは、パウロの終末論を「終末の切迫性」「行いによる裁き」「終末における愛の完成」という三つの特徴から分析している点です。

パウロは確かに、キリストの来臨に伴う裁きについても語りました。信仰者の「行い」が問われることについて、ローマ書やコリント書簡で繰り返し述べています。これは信仰の歩みに対する真剣さを喚起するものでした。

しかし同時に、山口氏はパウロにとっての「聖性」の中核にあるのは「愛」であったことを指摘しています。パウロの倫理の中心にあるのは「愛(アガペー)」であり(Iコリ13章参照)、その愛は神に起源を持つものです(ロマ5:5参照)。パウロが信徒たちに求める「良い行い」も詰まるところ「愛の行い」です(ロマ13:9-10参照)。つまり、「聖性において非の打ちどころのない」とは、「愛において完全である」ということなのです。

終末論がキリスト教信仰の中で本来果たすべき役割は、ここにあります。それは、人々を恐怖で支配するためのものではなく、愛に生きることへと招くものです。キリストが来られるその日に備えて、互いに愛し合い、聖い歩みを続けていこう、というのがパウロの終末論のメッセージでした。

「再臨遅延」をどう受けとめるか

ところで、パウロが「もうすぐキリストが来る」と信じていたのに、それから二千年たっても再臨が起きていないではないか、という疑問は当然あるでしょう。

山口氏の論考では、ピーター・L・バーガーの興味深い比喩が紹介されています。バーガーは再臨の遅延を、駅で列車を待つことにたとえました。時刻表を信じて待っている乗客に、遅れのアナウンスが繰り返される。やがて人々はホームを離れ、長い待ち時間を過ごすための準備を始める。時刻表そのものへの信頼が揺らぎ始める、と。

しかし、聖書自身がこの問いに応答していることも見逃せません。第二ペテロにはこう記されています。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(IIペテロ3:9)。再臨が「遅れている」ように見えるのは、理由もなく先延ばしにされているのではなく、一人でも多くの人が救いにあずかるための神の忍耐なのだ、と聖書は語るのです。この視点に立てば、再臨までの「今」という時間は、宣教と愛の働きに用いられるべき恵みの時だということになります。

山口氏もまた、パウロの祈りから学ぶべきことは二つあると述べています。第一に、終末が近いという希望を持つことの大切さ。第二に、未来は人間には決して知り得ないという謙虚さです。パウロは主の来臨が近いと期待していましたが、それを「知っている」と主張していたわけではありません。未来を確実に知っているという前提にパウロ自身ですら立っていなかったのです。

この点は非常に重要だと思われます。パウロをはじめ、どの使徒も再臨の正確な時期を知りませんでした。ということは、キリストの再臨の具体的な日時を語る者がいたとしたら、それは一人の例外もなく偽預言者だと言ってよいでしょう。終わりの日がいつかは、私たち人間には明かされていません。確かなことは、「キリストは再び来られる」ということだけです。その確かさの中で、希望と謙虚さのバランスを保つことこそ、健全な終末論のあり方ではないでしょうか。

終末論が「やばく」なるとき

以上を踏まえて考えると、終末論が問題になるのは、終末論そのものが危険だからではありません。終末論が特定の政治的アジェンダと結びつき、「私たちは正義で、あの人たちは悪だ」という二項対立を正当化するために用いられるとき、そこに歪みが生じるのです。

加藤氏の『福音派』が描き出しているのは、まさにそのような歪みの歴史です。本書では、たとえば1970年代にベストセラーとなったハル・リンゼイの著作を取り上げ、聖書の預言を現代の国際情勢(イスラエル建国、中東戦争、冷戦など)にそのまま当てはめて「終末のシナリオ」を描くディスペンセーション主義の影響が詳しく論じられています。こうした終末論は、特定の政治的立場を「神の計画」として正当化し、異なる立場の人々を「悪」の側に位置づける危うさを持っていました。

しかし、それは終末論の「本来の姿」ではありません。

むしろ、聖書が教える終末論は、私たち人間が自らの正義を振りかざして他者を裁くことへの戒めを含んでいます。パウロはローマ書でこう語っています。

「あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。(中略)ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう」(ローマ14:10、12-13)。

さばき主は神のみです。私たち人間は、善と悪を完全に正しく判断することなどできません。聖書の終末論は、さばきを人間の手に委ねるのではなく、神の手に委ねることを教えています。そのことをわきまえるとき、自分の正義を絶対化して他者を断罪するという歪みは、本来生じないはずなのです。

パウロが第一テサロニケ書簡で祈ったように、キリスト教における終末の希望とは、本来、愛と聖さに向かって私たちの歩みを方向づけるものです。裁きの厳粛さは、信仰者としての責任を自覚させるものであり、他者を断罪するための武器ではありません。

おわりに

キリスト教にとって終末論は、信仰の「おまけ」でも「危険物」でもありません。使徒信条にも刻まれた、信仰の根幹です。そして、新約聖書の最古の文書であるパウロの手紙が証言するように、終末の希望は祈りと愛の生活を支える土台でした。

もちろん、終末論をどう理解し、どう生きるかについては、キリスト教の歴史の中でもさまざまな立場があります。それを学び、考え続けることは大切なことです。加藤氏の著作も、その意味で大いに参考になるでしょう。

ただ、「終末論=ヤバイ思想」という短絡的な印象だけが広まるとしたら、それはとても残念なことです。キリスト教会は二千年にわたって、終末の希望のもとで礼拝をささげ、祈り、愛に生きてきました。その豊かな伝統を、丁寧に理解していくことが必要ではないかと思います。


参考文献

  • 加藤喜之『福音派――終末論に引き裂かれるアメリカ社会』中央公論新社(中公新書)、2025年
  • 山口希生「第一テサロニケ書簡におけるパウロの祈りと終末論」(『神学』87号〔特集:祈り〕、東京神学大学神学会、2025年)