山上の説教の中で、イエスはこう語ります。

昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

マタイによる福音書5章21-22節(口語訳聖書)

この言葉は、しばしば次のように理解されます。「旧約の律法は外に現れた行為だけを禁じていたが、イエスはそれを内面にまで深めた。律法は形式の宗教であり、イエスは心の宗教を始めた。つまり、イエスはここで新しい独自の教えを打ち立てた」という理解です。

確かにこの理解は、広く行き渡っていますが、聖書本文と突き合わせると成り立たないことがわかります。本記事では、律法がすでに心を命じていたこと、そして律法がそもそも心を目的として与えられたことを確認し、その上で、それではなぜイエスは教えを正す必要があったのか、という問いに答えます。結論を先に言えば、イエスは新しい教えを発明したのではなく、律法が最初から目指していたものを回復し、宣言したことになります。

1. 「言われた」と「書いてある」

まず、マタイによる福音書5章の言い回しを確認します。イエスは6回にわたって、「昔の人々に言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う」という形式で語ります(21節、27節、31節、33節、38節、43節)。

注意すべきは、イエスがここで「と書いてある」とは言っていないことです。イエスは、荒野の誘惑では「と書いてある」と語り、聖書本文を引くときはこの言い方を用います(マタイによる福音書4章4節、7節、10節)。しかし、山上の説教のこの箇所では、「言われていた」「聞いている」という言い方が選ばれています。イエスが向き合っているのは、律法の本文そのものではなく、律法がどのように語られ、聞かれ、教えられてきたかという、その受け取られ方だと言えます。

このことは、直前のイエス自身の宣言と合わせて読むと、いっそう明確になります。

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

マタイによる福音書5章17節(口語訳聖書)

『マタイ福音書』の枠組みにおいて、イエスの教えは律法の否定ではなく、律法との連続の上に置かれています。

2. 「心」を命じる律法

では、律法の本文は何を命じていたのでしょうか。ここで、かの有名な隣人愛の律法を確認しましょう。

あなたは心に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろにいさめて、彼のゆえに罪を身に負ってはならない。 あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。

レビ記19章17-18節(口語訳聖書)

ここには、「心に」という言葉が明記されているように、律法は、殺人や暴行という行為だけでなく、心のうちの憎しみそのものを禁じています。恨みをいだくこと、すなわち外に現れない内面の状態も、同じように禁じられています。そして、その禁止は、隣人を自分自身のように愛さなければならない、という積極的な命令と一続きになっています。憎しみから復讐へ、という心から行為への繋がり、行為の根幹にある心を律法の対象とすることは、山上の説教での発明ではなく、レビ記19章の本文にすでに明示されていることが確認できます。

そして、これはレビ記19章だけに見られる例外ではありません。十戒の最後の戒めは、「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」(出エジプト記20章17節)です。むさぼりとは、行為ではなく欲望であり、心の動きそのものです。律法の中核である十戒が、内面への戒めで閉じられています。律法が外面だけを扱ったという図式は、十戒の最後の一句とも合わないのです。

3. 律法の目的

律法が心を命じていた、という事実の確認から、もう一歩進みます。つまり、そもそも律法は、何のために与えられたのか、ということです。

申命記6章の構造が、この問いに答えています。

イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。

申命記6章4-5節(口語訳聖書)

これは律法全体の冒頭に置かれた宣言であり、このあとに個々の規定が続きます。つまり律法は、その構造として、心からの愛を目標に掲げた上で、具体的な定めを与えています。個々の規定は、この目標を実現する手段として位置づけられていると言えるでしょう。

また、同じ申命記6章には、興味深い場面が描かれています。「後の日になって、あなたの子があなたに尋ねて、このあかしと定めと、おきてとは何のためですか、と言うなら」(20節)、親は出エジプトの救いの出来事を語って聞かせよ、と命じられています。ここから読み取れることは、少なくとも最初の段階では、子は意味の分からないまま定めを守っている、ということです。しかし律法は、子がやがて意味を問うこと、そして型としての律法の内側にある意味へと導かれていくことを、最初から想定して設計されています。これは、子どもが親からルールを与えられる場面と似ています。例えば、「門限は5時」というルールがあるとします。はじめは「どうしてそんなルールを守らなければならないのか」と思うわけですが、成長するにつれて、「暗くなると危ない」という親がそのルールに込めた意図を理解できるようになります。このように、子は初め、そのルールの意味を理解していません。しかし、守る中で、やがてその真意を見出していきます。親は最初からルールに意図を込めており、子はそれを発見していくのです。

預言者たちは、この「教育」が行き着く先を約束しています。エレミヤは、新しい契約についてこう語ります。

しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。

エレミヤ31章33節(口語訳聖書)

エゼキエルは、神が新しい心と新しい霊を与え、人がその定めに歩むようになる日を語ります

わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。 わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。

エゼキエル36章26-27節

石の板に記された律法が、心に記される。外の型として与えられたものが、内から人を動かすものになる。これが律法の目指していた到達点です。

パウロも、同じことを「教育」という比喩で語っています。

このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。

ガラテヤ人への手紙3章24節(口語訳聖書)

律法は、それ自体が終着点なのではなく、人をあるところへ連れて行くために立てられた、教育の制度です。

まとめると、こうなります。律法は、初めから心を目指す教育として与えられ、しかも心への要求(心のうちで憎むな、むさぼるな)は律法の型の中に最初から刻まれていました。型を守ることを通して、人が心から神を愛し、隣人を愛するようになること。それが律法の目的でした。

4. 律法を受け取る側の腐敗

ここで、一つの問いが生じます。律法が最初から心を命じ、心を目指していたのなら、なぜイエスは「しかし、わたしはあなたがたに言う」と、教えを「正す」必要があったのでしょうか。

それを理解する鍵は、律法の本文ではなく、律法の受け取った側にあります。マタイによる福音書5章43節が、その実例を示しています。「隣り人を愛し、敵を憎め、と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。」ここで注目すべきは、「敵を憎め」という句が、律法のどこにも書かれていないことです。律法にあるのは「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」だけです。しかも、レビ記19章はその少し先で、愛の対象を同胞の外へと広げています。

あなたがたと共にいる寄留の他国人を、あなたがたと同じ国に生れた者のようにし、あなた自身のようにこれを愛さなければならない。あなたがたもかつてエジプトの国で他国人であったからである。わたしはあなたがたの神、主である。

レビ記19章34節(口語訳聖書)

それにもかかわらず、時とともに「隣人とは誰か」の線が引かれ、いつしか「隣人でない者は憎んでよい」という限定が、そもそもの律法の本文にないにも関わらず、付け加えられました。すなわち、イエスが正しているのは、レビ記の本文ではなく、本文に付加されたこの限定だと言えます。

イエスは、別の場面で、この現象そのものを指摘されています。マルコ福音書7章によれば、当時、財産を神への供え物(コルバン)と宣言することで、その財産を親の扶養に用いる義務を免れる、という運用が行われていました。神への献げ物という敬虔な制度が、父母を敬えという戒めを回避する道具に転用されていたのです。イエスはこれを、「あなたがたは、自分たちが受けついだ言い伝えによって、神の言葉を無にしている」と批判しました(13節)。ここでイエスが区別しているのは、神の言葉と、人の言い伝えです。問題は本文ではなく、律法を受けった者たちが本来の律法に付け加えたことです。

しかし、この現象は、古代のユダヤ人特有の失敗ではありません。というのも、これは、法というものの、普遍的な宿命だからです。現代でも、新しい法律が作られるとき、当初は誰も悪用を考えていません。しかし時が経ち、状況が変わる中で、条文の隙間が見つけられ、本来の趣旨とは逆の目的に使われるようになることがあります。法案に反対する人々がしばしば「将来の悪用」を根拠にするのは、この宿命を知っているからです。良い法であっても、人の手の中で運用されるかぎり、その中身は時とともに腐敗しうるのです。ユダヤ人たちに与えられた律法に起きたことも、これと同じでした。心を目指して与えられた教育の型が、時とともに、心を問わない形式に、さらには本来の趣旨を回避する道具にさえ、変質していったのです。

5. イエスの位置

以上を踏まえると、山上の説教におけるイエスの位置が定まります。

イエスは、律法の外から新しい要求を持ち込んだのではありません。第一に、イエスは本文を回復しています。「敵を憎め」という付加を取り除き、レビ記19章18節と34節が本来持っていた愛の射程を取り戻しています。第二に、イエスは目的を宣言しています。殺人の禁止の根に怒りの問題があること、姦淫の禁止の根に情欲の問題があることは、心を目指す律法が最初から見ていた地点です。イエスはその地点を、覆いを取り除いて明るみに出しました。「成就するためにきた」という宣言は、この二つを一語で言い表しています。

新約聖書の他の書も、この理解を支えています。ヨハネの第一の手紙は、「兄弟を憎む者はみな人殺しである」と書きます(3章15節)。著者はこれを、イエスが発明した新奇な教えとしてではなく、読者がすでに知っているはずの原理として語っています。憎しみと殺人を一つの線の上に置く見方は、教会において、レビ記19章17節に根ざした自明の理解でした。

では、イエスに新しいものは何もないのか、と言えば、そうではありません。イエスの新しさは、教えの内容の新奇さにではなく、別のところにあります。

第一に、権威です。イエスは「しかし、わたしはあなたがたに言う」と、律法を与えた方の権威をもって語ります。群衆が驚いたのは、教えの内容よりも、「律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられた」ことでした(マタイ7章29節)。

第二に、徹底です。イエスは心の要求を、「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となれ」(5章48節)という高さにまで引き上げます。

第三に、実現です。エレミヤとエゼキエルが約束した、律法が心に記される新しい契約は、イエスの十字架と聖霊の授与によって現実のものとなります。

まとめ

レビ記19章で「心のうちで兄弟を憎んではならない」と命じた神と、山上で「兄弟に対して怒る者はさばきを受ける」と語ったイエスは、別のことを言っていません。同じことを、同じ方が語っています。律法は、心を目指す教育として与えられ、心への要求を最初から内に含んでいました。時とともに腐敗したのは、律法ではなく、その受け取られ方でした。イエスは、その覆いを取り除き、律法が最初から目指していたものを回復し、そしてそれを実現する方として来られました。

したがって、イエスは新しい教えを発明したのではありません。むしろ、発明していないことにこそ、福音の確かさがあります。旧約と新約は、二つの異なる宗教ではなく、一人の神の一つのご計画だからです。レビ記19章の神と山上の説教のイエスが同じことを命じている以上、旧約聖書は、キリスト者にとって過去の書ではありません。そこに記されているのは、イエスが回復し、成就された、神の変わらない意志だと言えます。