「宗教と政治の話はタブー」――日本社会、そして教会のなかでもよく聞かれる言葉です。多くの場合、イエス・キリストは「個人の心の救い主」としてのみイメージされ、政治とは切り離された内面的な領域に置かれがちです。
しかし、近年の聖書学(パウロ研究)の最前線では、この常識を覆すような議論が熱を帯びています。パウロが「イエスはキリスト(メシア)である」と語ったとき、それは当時のローマ帝国に対する、極めて政治的で、ある種「危険な」宣言であったという視点です。
1. 「キリスト」は名字ではなく「王の称号」
もしかしたら、あまりキリスト教に馴染みがない人にとっては、「イエス・キリスト」は「田中太郎」のような「名前+名字」の感覚で捉えられることがあるかもしれません。あるいは、さすがに「名字」とまではいかなくても、その人を表す特定の用語、一種の人名(Personal Name)と考えられることは、クリスチャンの中でもよくあることです。
しかし、Joshua W. Jippをはじめとする近年の研究者は、パウロにとっての「キリスト(Christos)」が、単なる固有名詞になってしまったのではなく、依然として「油注がれた者=王」という称号としての意味を強く持っていたことを再評価しています。
Jippは、もし「キリスト」が称号としての意味を保っているならば、パウロの言葉は当時の「理想的な王」の描写と重なってくると指摘します。
… if Christos retains its titular connotations, then we should expect to find Paul’s christological discourse bearing similarities with Jewish and Greco-Roman depictions of the good king.
Joshua W. Jipp, “Paul and the Messiah,” in The State of Pauline Studies: A Survey of Recent Research, ed. Nijay K. Gupta, Scot McKnight, and Erin M. Heim (Grand Rapids, MI: Baker Academic: A Division of Baker Publishing Group, 2024), 11.
もし『キリスト』が称号としての含意を有しているならば、パウロのキリスト論的言説の中に、ユダヤ的およびギリシア・ローマ的な『良き王』の描写との類似性が見いだされるはずである。
古代世界において、王は神の代理人として「正義」を行い、民を治める存在でした。パウロがイエスを「キリスト」と呼ぶとき、彼は暗に「この世界を真に統治し、正義を実現する正当な王は、カエサルではなくイエスである」と宣言していたことになります。
2. 「主」「福音」……すべてがローマへの対抗メッセージ?
パウロが手紙の中で使う言葉には、当時のローマ皇帝崇拝で使われていた用語(専門用語)が数多く含まれています。 マイケル・バードやN.T.ライトたちは、パウロがこれらの言葉をあえて使うことで、「皇帝ではなくイエスこそが真の主である」という「隠された対抗メッセージ(hidden transcript)」を発信していたのではないかと議論しています。
• 「主(Kyrios)」: ローマ皇帝カエサルは「主」と呼ばれていました。
• 「福音(Euangelion)」: 当時、皇帝の誕生や即位、戦勝の知らせは「福音(良い知らせ)」と呼ばれていました。
パウロがあえてこの言葉を使った意図について、ピーター・オークスはマイケル・バードの言葉を使ってこのように述べています。
He acknowledges that Paul’s letter is “pastoral theology” rather than “a political manifesto,” but he concludes that “Paul’s gospel has sociopolitical implications because Israel’s faith was always sociopolitical.… Anyone vaguely familiar with Roman coins, inscriptions, literature, votive offerings and religion could see Paul engaging in a hidden transcript of protest. It is not simply the ‘parallel’ terminology that Paul uses like Kyrios or euangelion, but the apocalyptic and messianic narrative that such language is couched in that makes it tacitly counterimperial.”37
Peter Oakes, “Paul and Empire,” in The State of Pauline Studies: A Survey of Recent Research, ed. Nijay K. Gupta, Scot McKnight, and Erin M. Heim (Grand Rapids, MI: Baker Academic: A Division of Baker Publishing Group, 2024), 111.
37 Michael F. Bird, “ ‘One Who Will Arise to Rule over the Nations’: Paul’s Letter to the Romans and the Roman Empire,” in McKnight and Modica, Jesus Is Lord, Caesar Is Not, 146–65, here 161. For “hidden transcripts,” see Scott, Domination and the Arts of Resistance.
彼はパウロの手紙が「政治的宣言」ではなく「牧会神学」であることを認めつつも、「イスラエルの信仰は常に社会政治的であったため、パウロの福音には社会政治的含意がある」と結論づける。… ローマの貨幣、碑文、文学、奉納物、宗教に少しでも詳しい人なら、パウロが隠された抗議の記録に取り組んでいることが分かるだろう。それは単にパウロが『キュリオス(主)』や『エウアンゲリオン(福音)』のような[皇帝崇拝と]並行する用語を用いたことだけではない。そのような言語が、黙示的かつメシア的な物語の中に据えられていることこそが、それを暗黙のうちに反帝国的なものにしているのである。」
つまり、単に言葉が同じというだけでなく、「誰がこの世界を真に支配し、平和をもたらすのか」という壮大なストーリーにおいて、パウロはローマ帝国のプロパガンダに対抗していたということです。
3. 「信仰」とは「王への忠誠(Allegiance)」である
もしイエスが「王」であるなら、私たちに求められる「信仰(Pistis)」の意味も変わってきます。 従来、信仰は「心の中の同意」や「信頼」と理解されてきました。しかし、テレサ・モーガンやピーター・オークスなどの最近の研究者は、古代の文脈におけるPistisが、単なる信念にとどまらず、「関係性」や「忠誠」を意味していたことを強調しています。
She(Morgan) surveys pistis and fides (the Latin term) in Greco-Roman, Jewish, and early Christian sources and finds that these terms are fundamentally relational, understanding pistis/fides as “trust,” “trustworthiness,” “faithfulness,” and “good faith.” Morgan emphasizes the emotional, communal, and relational aspects of ancient pistis and concludes that across the NT, pistis is a “relationship which creates community” and which emphasizes the divine-human relationship in particular.35
Jennifer Strawbridge, “Romans,” in The State of Pauline Studies: A Survey of Recent Research, ed. Nijay K. Gupta, Scot McKnight, and Erin M. Heim (Grand Rapids, MI: Baker Academic: A Division of Baker Publishing Group, 2024), 146.
35 Morgan, Roman Faith, 14. For journal volumes dedicated to conversations between reviewers of this monograph and Morgan, see RelS 54, no. 4 (2018): 563–604; and NTS 64, no. 2 (2018): 243–61.
彼女(モーガン)は、ギリシア・ローマ、ユダヤ教、および初期キリスト教の資料における『ピスティス(pistis)』と『フィデス(fides)』(ラテン語の用語)を調査し、これらの用語が根本的に関係的なものであることを見出しました。彼女はピスティス/フィデスを、『信頼(trust)』、『信頼性(trustworthiness)』、『誠実さ(faithfulness)』、そして『誠意(good faith)』として理解しています。モーガンは、古代のピスティスが持つ情動的、共同体的、そして関係的な側面を強調し、新約聖書全体を通して、ピスティスとは『共同体を創造する関係性』であり、特に神と人間との関係を強調するものであると結論付けています。
これは、近年ではN.T.ライトの『驚くべき希望』(原著2010年)でも再三強調されていたことですが、救いとは「死後に天国へ行く切符を手に入れること」ではなく、「イエスという新しい王に忠誠を誓い、その統治下にある新しい共同体(神の国)の民として生き始めること」を意味します。
「地図」を書き換えること:単なる反帝国主義との違い
それでは、パウロは単なる「革命家」だったのでしょうか? ここでバランスが重要になります。パウロはローマ帝国の打倒を企てたわけではありません。ピーター・オークスは、パウロが行ったのは「社会への抗議活動」ではなく、「宇宙の地図の描き直し」だったと指摘します。
When it comes to any sense of anti-imperial discourse in Paul’s letter, Oakes is open to this, but not as any sort of public protest of society. Rather, Paul’s use of political language would be for the purpose of shaping a uniquely Christian social and political identity to establish a certain way of being. Thereby Paul is “redrawing the map of the universe.… The center itself is occupied by Jesus.” By definition, then, Caesar and Rome are displaced. If a Romanized ideology saw the imperial spirit as a “great translocal, divine force,” Paul’s duty was to reconfigure the Philippian Christians’ political imagination to secure that focus for Jesus Christ.22
Nijay K. Gupta, “Philippians,” in The State of Pauline Studies: A Survey of Recent Research, ed. Nijay K. Gupta, Scot McKnight, and Erin M. Heim (Grand Rapids, MI: Baker Academic: A Division of Baker Publishing Group, 2024), 254–255.
22 For an important set of methodologically sophisticated studies on the NT and empire, see Scot McKnight and Joseph B. Modica, eds., Jesus Is Lord, Caesar Is Not: Evaluating Empire in New Testament Studies (Downers Grove, IL: IVP Academic, 2013).
パウロの手紙における反帝国的な言説(ディスクール)という点に関しては、オークスはこの可能性を認めているが、それを社会に対する何らかの公的な抗議活動として見ているわけではない。むしろ、パウロによる政治的な言語の使用は、ある特定の『存在様式(way of being)』を確立するために、キリスト教独自の社会的・政治的アイデンティティを形成することを目的としていたと考えられる。それによって、パウロは『宇宙の地図を描き直している(……)。その中心そのものを、イエスが占めている』のである。したがって定義上、カエサルとローマはその座を追われることになる。もしローマ化されたイデオロギーが、帝国の精神(imperial spirit)を『偉大なる、地域を超越した(translocal)、神的な力』と見なしていたのであれば、パウロの務めは、ピリピのキリスト者たちの政治的想像力を再構成し、その焦点をイエス・キリストへと確保することであった。
このような指摘は重要なものと思われます。確かに、キリストの「政治的」な側面があることは多くの研究で指摘されている通りでしょう。しかし、その一方で、その側面が強調されすぎることで起きる弊害は、パウロが語る「福音」が単なる政治闘争の問題として矮小化されてしまうことです。
パウロが求めたのは、帝国への「反対」そのものではなく、「キリストを世界の中心に据えること」でした。キリストを世界の中心に据えたとき、相対的にカエサルの権威は二次的なものへと「ズレて」しまいます。これが、パウロのメッセージの帝国をも揺るがす力強さだと言えるでしょう。
まとめ:順序を間違えないために
パウロの語る福音は、安直な政治運動ではありません。しかし、それは「個人的な心の問題」に閉じ込められるような柔弱なものでもありませんでした。
- キリストへの絶対的な忠誠がまずある。
- その結果として、地上の権力を絶対化するシステムには従えなくなる。
この順序が重要です。キリストの政治的側面を強調しすぎて福音が政治闘争に矮小化されるのも、あるいは政治的背景を無視して福音が空想化されるのも、どちらもパウロの意図から外れてしまうでしょう。
地上の王(政治)に誰を選ぶか、という問いの向こう側に、私たちは「誰を究極の王として仰いでいるか」という問いを常に突きつけられています。パウロのメッセージは、今の私たちの「政治的想像力」を、今一度キリストへと向け直すよう求めていると言えるのではないでしょうか。
終わりに:天の市民として、一票を投じるということ
現代の日本に「王」はいません。私たちは選挙によって、自分たちの社会を委ねる「指導者」を自ら選ぶシステムの中に生きています。
しかし、たとえ政治体制が変わったとしても、「誰を究極の権威として仰ぐか」というパウロが突きつけた問いの鋭さは、少しも失われていません。パウロが語った「キリストの主権」や「王への忠誠」という視点に立つとき、一票を投じるという行為は、単なる国民の義務を超え、私たちの「信仰の告白」を具体的なカタチにする大切な機会へと変わるはずです。
そこで、私たちがこの「地上の政治」と誠実に向き合うための三つの視点を、ささやかな補足として共有したいと思います。
- 「究極の忠誠」と「暫定的な選択」
信仰者にとって、究極の王は、イエス・キリストお一人です。どの政党も、どの候補者も、この「王」の代わりになることはできません。だからこそ、私たちは特定の勢力を絶対視することなく、しかし、最も「王なるキリストの正義」に近いのはどの道かを、冷静に、かつ祈りつつ判断する自由が与えられています。 - 「地図」を書き換えた者の責任
パウロが宇宙の地図を書き換え、中心にイエスを据えたように、私たちも「政治が世界の中心である」という錯覚から自由でありたいと思います。しかし、中心にキリストがいるからこそ、その支配が及ぶべきこの社会の片隅にまで、私たちの責任は広がっています。投票は、天のルールをこの地に反映させようとする「大使/使節」(エペ6:20)としての小さな、しかし大切な職務だと言えるのではないでしょうか。 - 「平安」の根拠はどこにあるか
選挙の結果によって、私たちの未来がすべて決まるわけではありません。たとえどのような時代が来ようとも、キリストが「主」であるという事実は揺るがないからです。この揺るぎない平安を土台に持っているからこそ、私たちは過度に恐れることなく、誠実に、この社会の形成に参加していくことができます。
