前編では、テオーシス(神化)という概念の歴史を概観し、それが「人間が神そのものになる」ことではなく、恵みによって神の性質にあずかる者へと変えられていくことを意味する、古代教会以来の正統的な概念であることを確認しました。
後編にあたる本記事では、この概念をパウロの聖化理解に本格的に適用したマイケル・ゴーマンの議論を、『Inhabiting the Cruciform God』第3章に沿って紹介します。
①あなたがたも「十字架の姿」でなければならない
第3章の表題は、レビ記の有名な命令から取られています。
レビ記19章2節(口語訳聖書)あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。
聖であるとは、神に似た者として、他の民とは区別された存在になることです。ゴーマンによれば、パウロはこの命令を直接引用してはいないものの、ユダヤ人としてこれを知り、深く考えていたことは十分に裏づけられます。そしてパウロは、この聖性の理解を、十字架につけられたメシアの福音に照らして再構成した、というのがゴーマンの主張です。聖への召しそのものを捨てたのではなく、その中身をキリストにおいて捉え直した、ということです。ゴーマンはこの再構成を、レビ記の言葉を言い換える形で、こう要約します(第3章のタイトル)。
You Shall Be Cruciform, for I Am Cruciform.
わたしは十字架の姿であるから、あなたがたも十字架の姿でなければならない。
神の聖性そのものが十字架の姿をとっており、それゆえ神の民の聖性も十字架の姿をとる、という主張です。なお、cruciform(十字架のかたちをした、の意)には定まった訳語がありませんが、ゴンビス『力は弱さのうちに—牧会者パウロ 十字架の姿を生きる』(いのちのことば社、2025年)が「十字架の姿にあずかる」という訳語を採用していること(同書の訳者あとがき参照)を踏まえ、本記事でも「十字架の姿」を基本の訳語として用います。
この章は、義認を「キリストとの共死による義認」として読み直した第2章に続いて、聖化を扱う章です。第2章の議論は、以前の記事で詳しく紹介しています。
②パウロは聖性に無関心だったのか
聖化の議論に入る前に、ゴーマンは一つの前提を確認します。それは、そもそも聖性は、パウロにとって中心的な主題なのか、という問いです。
実のところ、パウロ研究の歴史において、聖性は目立たない主題であったようです。ゴーマンが引用するカルヴィン・レッツェル(Calvin J. Roetzel)の言葉によれば、聖性は「パウロの神学的文法の中で軽視されてきた特徴(a neglected feature of Paul’s theological grammar)」です。しかしゴーマンは、この研究状況を皮肉なことと評します。研究者は軽視してきたが、パウロ自身はむしろ聖性に強い関心を持っていたからです。その証拠として、ゴーマンは次の三点を挙げます。
一つ目は、パウロが信者を呼ぶ呼称です。パウロが最も好んだ呼び名の一つは「ハギオイ(聖なる者たち、聖徒)」でした。この語は真正パウロ書簡(パウロの真筆と広く認められている手紙)で25回使われ、4つの手紙の冒頭に登場します。教会を「聖なる者たち」と呼ぶことがパウロには自然な言葉づかいになっており、聖性が教会のアイデンティティそのものであったことを示しています。
二つ目は、手紙の冒頭でこの呼称が神の召しと結びつけられていることです。第一コリント1:2でパウロは、コリントの教会を「キリストにあってすでに聖とされた者」であり、かつ「聖なる者となるように召された者」と定義しています。教会はすでに聖とされている(賜物)と同時に、聖性を目標として召されてもいる(課題)。ゴーマンによれば、この「賜物であると同時に課題である」という二重性が、パウロの聖性理解の基本形です。
三つ目は、聖性が手紙の要となる位置、すなわち手紙全体の主題を要約する場所に現れることです。第一テサロニケでは、手紙の中間と末尾の要約的な祈りがいずれも聖性を主題とし、倫理的な勧めの部分の冒頭は「神のみこころはあなたがたの聖化である」(4:3参照)と宣言します。第一コリントでも、冒頭の感謝がキリストの来臨における非の打ちどころのなさへと向かい、神の召しが「御子イエス・キリストとの交わり(コイノニア)」として特定されます(1:9)。
この概観からゴーマンが引き出す結論は二つあります。第一の結論は、パウロにとって聖性の中身がキリストへの参与だということです。召しの目標が「御子との交わり(コイノニア=分かち合い、参与)」と言われている以上、聖性はキリストから切り離して定義できません。第二の結論は、聖化が義認への付加物ではなく、義認の現実化だということです。パウロは「あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである」(第一コリント6:11、口語訳)と、きよめと義認を連続して語ります。聖化は、義認の後に付け加えられる第二段階ではなく、義認によってすでに始まった現実を生きることだということです。義認そのものを「キリストとの共死」として捉えたゴーマンにとって、これは一貫した帰結だと言えます。義認が最初からキリストへの参与であるなら、参与として生きられる聖化が義認と別のものであるはずがないからです。
③聖性の三つの基本的な特徴
この概観を踏まえて、ゴーマンはパウロにおける聖性の基本的な特徴を三つに整理します。
第一に、聖性は非キリスト者の生き方との差異です。ただし、この差異は世からの離脱を意味しません。パウロは世から出て行くことを明確に退けており(第一コリント5:9-10参照)、教会は世の中にとどまりながら異なる存在であることによって、周囲の文化への証しとなります。
第二に、聖性は三位一体的な構造を持ちます。聖性は父なる神の召しと意志であり、キリストにおいて起こり(キリストが教会にとっての聖性を定義します)、聖霊によって実現されます。人間の聖性とは、神の聖性への参与です。
第三に、聖性はキリストに似ることです。御子のかたちに似た者とされるという終末の目標(ローマ8:29等)は、今すでに、キリストの十字架への参与として始まっています
このような三位一体的な構造は、教父の伝統に先例を持つものでもあります。前編で触れたエイレナイオスには、御子と御霊を「神の両手」として描く表現があります。『異端反駁』第5巻1章3節にはこうあります。
神の両手は時の終わりにあって、肉の欲によらず、また人の欲によらず、父の欲することに従い、人間を生きるものへと完成し、アダムが神のかたちに、また似たものとなるようにされたのである。
大庭貴宣『エイレナイオスの聖霊神学:2世紀に解き明かされた三位一体と神化』〔ヨベル、2022年〕92頁の訳による。
父の意志のもと、御子と御霊の働きによって人間が神のかたちへと完成されるという構図です。なお、ゴーマン自身はこの章でエイレナイオスに言及していないため、この対応づけは本記事による補足です。
④聖化する霊は御子の霊である
ゴーマンは次に、聖霊と聖性の関係を、最初期の手紙である第一テサロニケ書とガラテヤ書から紐付けます。
第一テサロニケでは、聖霊は性のあり方における聖さと結びつくだけでなく(4:3-8)、テサロニケの信徒たちの信仰・愛・希望のうちに働いています(1:2-10)。しかも彼らの信仰は、迫害の中でパウロとイエスに倣う者となるという形を取りました。ゴーマンはここから、パウロが伝統的な聖性の意味を「十字架につけられたイエスの物語を共有すること」へと拡張し始めていると読みます。
この方向性は、ガラテヤ書で明確になります。ガラテヤ書には「聖」という語そのものが登場しません。ゴーマンはこの不在をやや皮肉なことと評します。この手紙の中心的な争点は、まさに聖性の意味、すなわち神の民を区別するしるしは何かという問題だからです。割礼でも食卓の分離でもなく、御子と御霊という父の賜物への参与こそがしるしである、というのがパウロの答えです。その核心にあるのが次の言葉です。
わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
ガラテヤ人への手紙2章19-20節(口語訳聖書)
なお、ゴーマンはこの箇所の「神の御子を信じる信仰」(口語訳)を「神の御子の真実(御子自身の信実さ)」と訳す立場を取っています。これはピスティス・クリストゥ論争と呼ばれる、現在も続く学術的な論争点であり、口語訳のような従来の読み方(キリスト「を信じる」信仰と取る読み方)にも有力な支持があります。ゴーマンの読みでは、十字架は御子の神への信実と隣人への愛が一つになった行為であり、それこそが聖性の決定的な啓示となります。過去の記事もご参照ください。
さらにガラテヤ4:6は、信仰者の心に送られた霊を「御子の霊」と呼びます。聖霊が御子の霊であるからこそ、御霊に導かれる共同体のしるしは「愛によって働く信仰」(5:6参照)となり、御霊の実(5:22-23)は十字架の姿をとる生の具体的な内容を列挙するものとなります。ゴーマンの要約によれば、御霊の働き、すなわち聖性とは、本質においてクルシフォーミティ(十字架の姿にあずかること)です。
⑤十字架につけられたキリストは神の聖性である
ここまでは人間の聖性の話でした。第3章の後半でゴーマンは、より根本的な主張、すなわち十字架は神ご自身の聖性の啓示であるという主張に進みます。
第一コリント1:18-2:5でパウロは、十字架につけられたキリストを、神の力また神の知恵として宣言します(1:24参照)。知恵と力という伝統的な神の属性が、十字架の愚かさと弱さに結びつけられることで、根本から定義し直されています。さらに1:30では、「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである」(口語訳)と言われます。ゴーマンはここで、神の行為と神の属性を切り離すことはできないと論じます。神の行為は神の本質の自己啓示だからです。つまり、十字架につけられたキリストにおいて神は人間を聖とする(行為)だけでなく、十字架は神の聖性そのもの(属性)を啓示している、ということです。
第二コリントでは、この論理が「神のかたち」と「栄光」の言葉で展開されます。
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
コリント人への第二の手紙3章18節(口語訳聖書)
ゴーマンによれば、パウロはここで「聖」という語を使っていませんが、記述しているのはまさに聖化の過程、すなわちキリストに似た者、したがって神に似た者になる過程です。後代のキリスト教著述家にとってこのテキストがテオーシスの教理の基礎となったのは正当なことでした。ただし決定的に重要なのは、パウロが知っている唯一のキリストが「十字架につけられたキリスト」だという点です。信仰者が変えられていく先にある「神のかたちと栄光」とは、弱さにおける力、死におけるいのちという逆説的な栄光です。
最後にピリピ2:6-11です。ゴーマンがパウロの「マスター・ストーリー」と呼ぶこのテキストは、神のかたちであったキリストが自らを空しくし(ケノーシス)、十字架の死に至るまで従順であったことを語ります。通常の神性の観念からすれば、神は力と特権を行使し、栄誉を求めるはずです。しかし、キリストはその正反対を行いました。ゴーマンによれば、この「異常な神性」こそが、キリストにおいて示された神の聖性、すなわち神の他とは異なるあり方(distinctiveness)です。ここから第二コリントの議論と同じ結論が導かれます。
…God is Christlike, and transformation into Christlikeness is theosis.
Michael J. Gorman, Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul’s Narrative Soteriology (Grand Rapids, MI; Cambridge, U.K.: William B. Eerdmans Publishing Company, 2009), 121.
神はキリストに似ておられる。そして、キリストに似た者への変容がテオーシスである。ゴーマンはこの結論の直前で、神は十字架につけられたキリストのようなお方であり、神に似た者となるとはそういう神に似た者となることだ、と述べています。神についての既存の観念にキリストを合わせるのではなく、十字架のキリストから神理解そのものを組み直すという順序です。この順序が確保されて初めて、神に似た者となることが、力や栄光の獲得ではなく、十字架の姿にあずかることを意味することになります。
⑥キリスト化は神化である
以上のテキスト解釈を踏まえて、ゴーマンは章の終わりで議論をまとめます。パウロにおいて、伝統的なユダヤ的聖性は、一部が肯定され(不品行と偶像礼拝を避けること)、一部が問い直され(割礼、食卓の分離)、全体としては新しく組み直されました。十字架の姿をとる聖性とは、父と子の御霊の力によってキリストに似た者となること、それゆえ神にも似た者となることです。
ゴーマンはこのまとめの締めくくりに、エペソ書を挙げます。ゴーマンはこの手紙について、パウロ自身が書いたにせよ、その弟子か同労者が書いたにせよ、と著者の問題を括弧に入れたうえで、この手紙が十字架の姿をとる神に倣うことと十字架につけられたキリストに倣うこととを、たがいに重なるものとして見ている点が重要だと指摘します。エペソ書は、「神にならう者になりなさい」という命令と、キリストが自らをささげたように愛のうちを歩むこととを、一つに結びつけているからです(エペソ4:32-5:2、口語訳)。そして、ゴーマンはこう述べます。
Christification is deification, or theosis.
Michael J. Gorman, Inhabiting the Cruciform God, 125.
キリスト化は神化、すなわちテオーシスである。
そのうえでゴーマンは、ここまでの議論をまとめる形で、パウロに当てはまるテオーシスの定義を提示します。これは、前編で紹介した序論の定義(7頁)を拡張した形です。
Theosis is transformative participation in the kenotic, cruciform character and life of God through Spirit-enabled conformity to the incarnate, crucified, and resurrected/glorified Christ, who is the image of God.
Michael J. Gorman, Inhabiting the Cruciform God, 125.
テオーシスとは、神のかたちである、受肉し、十字架につけられ、復活・栄化されたキリストと同じ姿に御霊によって変えられることを通して、ケノーシス的で十字架の姿をとる神の性質と生に変容的に参与することである。
序論の定義との違いは、「神の性質」に「生(life)」が加わり、キリストが「神のかたち(the image of God)」であることが明示された点です。第二コリント3:18-4:6の読解がこの拡張に反映されていると言えます。
ゴーマンは定義の直後に、これは義認と別のものではないと念を押します。テオーシスは、参与による生、共死による共復活として、信仰による義認の現実化ないし具体化である。それは神のような信実と愛によって特徴づけられる生であり、義とされた者の生にほかならない、というのがゴーマンの主張です。義認・聖化・テオーシスは、一つの参与的な救いの現実の諸側面だということになります。
⑦今日における参与的聖性
章の最後でゴーマンは、この聖性理解の今日的な含意を三つの側面から素描します。
第一に、個人と教会の聖性です。十字架の姿をとる聖性は、聖性を個人の内面の事柄に閉じ込める自己中心的な理解や、自己実現の一形態とみなす理解への挑戦となります。聖性とは自己の物語の生成ではなく、「他者の物語」、すなわち十字架の姿をとる聖性という神の物語に入れられ、それを共同体として演じることです。
第二に、性のあり方における聖さです。ゴーマンは、十字架の姿をとる自己譲与が聖性の欠くことのできない中心であるとしつつ、それが聖性のすべてではないと明確に述べます。パウロにとって、性における聖さを欠いたクルシフォーミティは聖性ではなく擬似聖性です。性という神の賜物は、契約的な婚姻の絆の中で、他者と共同体を顧みる愛と結びつくときに正しく用いられる、というのがゴーマンが解釈するパウロの理解です。
第三に、政治の聖性です。ゴーマンによれば、多くのキリスト者に内在化された神観はいまだに、十字架の姿とは無縁な力のモデルを中心としており、決定的な修正を必要としています。愛国心と力を結合させる市民宗教の「普通の神」、すなわち国家的・軍事的な力の神への追従は、十字架の弱さにおいて知られる三位一体の神の聖性とは無関係であり、ゴーマンはこれを擬似聖性、擬似テオーシスとまで呼びます。十字架の姿をとる神への参与は、個人的・公的・政治的な生活における支配の拒否を伴う、というのがゴーマンの主張です。
前編の冒頭で見たとおり、キリスト教の救いは、罪の赦しを受けた時点で完結するものではなく、その後も続く変化の過程を含んでいます。そして、今回見てきた第3章は、この過程の行き先を示すものです。変化の行き先はキリストのかたちであり、キリストのかたちとは神のかたちであり、それゆえ聖化とはテオーシスにほかならない、というのが本章の主張です。ゴーマンの定式で言えば、「わたしは十字架の姿であるから、あなたがたも十字架の姿でなければならない」ということになります。
ぼくどくメモ
この章を読んで心に残ったのは、「神はキリストに似ておられる」という一文でした。私たちは普通、逆の順序、つまり、まず神の観念があり、キリストはそれに合致するお方だ、と考えるように思います。しかしパウロの論理は、十字架のキリストから出発して神の理解そのものを作り直すことを求めます。
日々の生活の中で「聖くなりなさい」という言葉がしばしば律法主義的な重荷として響いてしまうのは、その「聖さ」の中身が十字架から切り離されているからかもしれません。聖化とは、頑張ってきよくなることではなく、私のうちに生きておられるキリストのかたちが、御霊によって形づくられていくことです。ガラテヤ2章の言葉が、この章を読んだ後では以前と違って聞こえます。
参考文献:
