ヨハネの福音書10章の終わりに、少し不思議な場面があります。石を取り上げてイエスを打ち殺そうとする人々に向かって、イエスご自身が詩篇82篇を引用される場面です。

では、なぜここで詩篇82篇なのでしょうか。この問いを手がかりに、この箇所を読み進めてみたいと思います。

何が問題だったのか

これまでのイエスとユダヤ人たちとのやり取りは、突き詰めれば「イエスという人は一体何者なのか」という問いに集約されます。イエスは繰り返し、ご自分が父なる神から遣わされた者であることを証しされてきました。しかし多くのユダヤ人たちは、それを信じることができませんでした。

それどころか、彼らはイエスを石打ちにしようとします。理由は33節に記されています。

あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒瀆のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。

前回の箇所でイエスは「わたしと父とは一つです」と言われました。そのことばが彼らには、人間が自分の立場を神のところにまで引き上げる、挑発的なことばとして聞こえたのです。

彼らの理解では、神様と人間との間には越えることのできない線が引かれています。神は神であり、人は人です。人が神のようになろうとすることは、忌避されるべきことでした。

しかし、ここで注目したいのは、実際に起こっていたのはその逆だったということです。イエスは、ご自分を神と「した」のではありません。この福音書の冒頭に「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(1:1)と記されているとおりです。神であられた方が、へりくだって人となられた。それが聖書の語っていることです。彼らは、人が神の座に上ろうとしていると責めました。しかし実際には、神であられた方が人のところまで降りてこられたのです。

彼ら自身の聖書から

イエス様は、彼らが重んじる旧約聖書を用いて答えられます。

あなたがたの律法に、「わたしは言った。『おまえたちは神々だ』」と書かれていないでしょうか。神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、「わたしは神の子である」とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、「神を冒瀆している」と言うのですか。(10:34-36)

引かれているのは詩篇82篇6節です。

わたしは言った。「おまえたちは神々だ。みないと高き者の子らだ。」

ここでなされる論の骨格は明快です。つまり、人が「神々」と呼ばれた例が、ほかならぬ彼ら自身が権威と認める聖書の中にある、ということです。人が神とされることなどあり得ない、というのが彼らの怒りの根拠でしたが、その根拠は、彼ら自身が認める聖書によって成り立たなくなるのです。

一節だけの引用なのか

ここで立ち止まって考えたいことがあります。イエスは、この一節だけを取り出して用いておられるのでしょうか。それとも、詩篇82篇という詩篇全体を踏まえて引いておられるのでしょうか。

新約聖書が旧約聖書を引用するとき、しばしば前後の文脈ごと引かれていると考えられます。よく知られている例が、十字架上でイエスが発せられた「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」ということばです。これは詩篇22篇1節のことばですが、詩篇22篇は嘆きだけで終わりません。後半では神の救いへの確信と賛美に転じます。ですから、あのことばを絶望の叫びとしてのみ読むのか、詩篇全体を踏まえたことばとして読むのかで、十字架上のイエスのことばの理解は大きく変わります。

同じ問いが、ここにも当てはまります。

人が「神」と呼ばれている例を示すだけであれば、旧約聖書には他にも引ける箇所があります(例えば、モーセがファラオの前で「神」とされたことなど)。しかし、イエスは詩篇82篇を選ばれました。そしてこの詩篇82篇というのは、「神々」という称号を与えられた者たちがその務めを果たさず、それゆえ人のように死ぬと宣告される詩篇なのです。

詩篇82篇が語っていること

詩篇82篇の冒頭にはこうあります。

神は 神の会議の中に立ち 神々のただ中でさばきを下す。いつまで おまえたちは不正をもってさばき 悪しき者たちの味方をするのか。弱い者とみなしごのためにさばき 苦しむ者と乏しい者の正しさを認めよ。弱い者と貧しい者を助け出し 悪しき者たちの手から救い出せ。彼らは知らない。また 悟らない。彼らは暗闇の中を歩き回る。地の基は ことごとく揺らいでいる。(82:1-5)

「神々」と呼ばれた者たちが、責められています。不正なさばきを行い、弱い者やみなしごを顧みなかったからです。そして5節に、彼らは知らず、悟らず、暗闇の中を歩き回る、と言われます。

この5節が、ヨハネの福音書9章から10章の主題と重なります。9章でイエスは言われました。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです」(9:39)。そして「今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります」(9:41)と続けられます。見えていると言いながら見えていない人々のことです。

さらに詩篇82篇は、こう結ばれます。

神よ 立ち上がって 地をさばいてください。あなたがすべての国々をご自分のものとしておられるからです。(82:8)

この祈りを踏まえるなら、イエスがこの詩篇を引かれたことの意味が見えてきます。つまり、神が立ち上がってさばいてくださるようにという祈りに対して、神は御子を世に遣わされたということです。

「神々」とは誰か

ここで一つ、注解者たちの間で見解が分かれている点に触れておきます。それは、詩篇82篇の「神々」が誰を指すのか、という問題です。

主に二つの読み方があります。

一つは、シナイ山で律法を受けたイスラエルの民を指すという読み方です。イエスの時代のラビたちの間に伝えられていた理解であり、35節の「神のことばを受けた人々」という言い方がそれを支持します。律法を受けたのですから、その意味で「神々」と呼ばれた。しかし、彼らはシナイ山を離れないうちに金の子牛を拝み、それゆえ「人のように死ぬ」と告げられた、という理解です。

もう一つは、イスラエルの裁き人たちを指すという読み方です。裁きは本来神の権限であり、それが人に委ねられているゆえに「神々」と呼ばれる、という理解です。この読み方に立つ注解者は、詩篇82篇5節を失敗した指導者たちへの裁きの宣告と見て、ヨハネの福音書がイエスをまことの裁き主として提示していることと結びつけます。

どちらの読み方にも根拠があり、一方に決めつけることは難しいところです。

ただ、この箇所を読むうえで大切なのは、どちらの読み方を取るにせよ、目の前にいるユダヤ人たちがその告発の射程に入ってくる、ということです。ある注解者は、「神のことばを受けた人々」とはイエスの時代までのすべてのユダヤ人であり、目の前の聞き手たちを除くことはできない、と述べています。実際、9章で彼ら自身が「私たちはモーセの弟子だ。神がモーセに語られたということを私たちは知っている」(9:28-29)と語っていました。

そして彼らは、実際にさばく者でもありました。9章で目の見えなかった人に対して「私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ」(9:24)と断定し、「おまえは全く罪の中に生まれていながら」(9:34)と言って会堂から追い出したのです。

詩篇82篇が責めているのは、まさにそのような姿でした。神のことばを受けながら、その教えを実践していない者たちです。

イエスの「わざ」とは何か

そのような人々に向かって、イエスは言われます。

もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。(10:37-38前半)

この「わざ」とは何でしょうか。これまでの文脈を踏まえるなら、ベテスダの池での病人の癒やしであり、また生まれつき目の見えなかった人の目が開かれた出来事です。

ここでもう一つ、10章を理解するうえで欠かせない旧約の箇所があります。それが、エゼキエル書34章です。

弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。(エゼキエル34:4)

イスラエルの牧者たちが責められています。本来なすべきことをしていなかったからです。

そして、神は言われます。

わたしは失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。肥えたものと強いものは根絶やしにする。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。(エゼキエル34:16)

牧者たちがしなかったことを、神ご自身がなさる、という宣言です。

詩篇82篇とエゼキエル書34章は、同じ構図を持っています。務めを託されながらそれを果たさない者たちがいる。だから神ご自身が立ち上がられる。

この背景を踏まえるなら、イエスのなさった癒やしの「わざ」が何であったかが見えてきます。すなわちそれは、本来イスラエルの指導者たちがなすべきだったあわれみのわざでした。人々から排除された病人を、再び神を礼拝する者へと変え、共同体から追い出された者を助け出す。まさにそのような牧者のなすべきわざを、「良い牧者」であるイエスがなさっていたのです。

「わざ」を信じるとはどういうことか

38節の後半には、こう記されています。

それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。

なぜ、わざを信じることが、御子イエスと御父との関係を知ることに繋がるのでしょうか。

それは、イエスがなさったことが、父なる神の御心そのものだったからです。エゼキエル書34章で神ご自身がなさると宣言されたことを、イエスがなさっている。ですから、そのわざを見ることは、父の御心を見ることになるのです。

そしてこの理解は、10章の前半とも結びつきます。

わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。(10:14-15)

牧者と羊が互いに知っていることが、御父と御子との関係と同じだ、と言われています。羊が牧者に知られ、養われ、守られる。その関わりは、父と子との関わりに根ざしているのです。

こう考えますと、「わざを信じなさい」というイエスのことばは、目の前で起こった不思議な出来事を認めなさい、ということではありません。そのわざに現れている父なる神の心を受け取りなさい、という招き、だと言えるのではないでしょうか。

まとめ

初めの問いに戻ります。イエスはなぜ詩篇82篇を引用されたのでしょうか。

人が「神」と呼ばれた例を示すだけであれば、他の箇所でも足りたはずです。しかし、この詩篇には、それ以上のことが記されていました。つまり、神のことばを託されながら、その務めを果たさなかった者たちへの告発です。弱い者やみなしごを顧みず、知ることも悟ることもなく、暗闇の中を歩き回る者たちの姿です。

イエスの目の前にいた人々は、まさにそのような姿でした。神のことばを受けた民に連なる者として、自分たちの立場に確信を持ちながら、目の見えなかった人を罪人と断じ、会堂から追い出していたのです。

そして詩篇82篇は、神よ立ち上がってさばいてください、という祈りで閉じられます。イエスがこの詩篇を引かれたとき、その祈りはすでに答えられていました。神は立ち上がり、御子を世に遣わされたからです。しかもそれは、さばくためである以前に、救うためでした。

「わたしのわざを信じなさい」。

このことばは、そのようにして立ち上がられた神の心を、そこに見なさいという招きなのです。

補足:場面が変わっているのになぜ連続して読むのか

この記事では、9章に登場する人々と、10章後半でイエスに対峙する人々とを、連続したものとして扱ってきました。しかし本文をそのまま読むと、両者の間には時間的な隔たりがあります。この点について補足しておきます。

10章22節にはこうあります。「そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。」宮きよめの祭りはキスレウの月の二十五日、現在の十二月にあたる時期に始まる八日間の祭りです。一方、7章2節では仮庵の祭りが言及されていました。ですから、9章の出来事から10章後半までの間に、三か月ほどが経過していることになります。

このことを最も丁寧に論じているのが、ラムジー・マイケルズ(J. Ramsey Michaels)です。彼は22節の「そのころ」という語が、先行する部分(9章1節から10章21節)ではなく、後続の部分の時間枠を設定するものだと指摘します。根拠として挙げるのは、著者(ヨハネ)の書き方の癖です。直前の内容について時と場所をまとめるときには、「これらのことをイエスは、カペナウムの会堂で教えていたときに話された」(6:59)や「これらのことばを、イエスは宮で教えていたとき、献金箱の近くで話された」(8:20)といった表現が用いられます。しかし、10章22節はそうなっていません。ここで著者(ヨハネ)は、まとめているのではなく、先へ進んでいるというのです。

マイケルズはさらに、9章1節から10章21節の出来事には明確な時間の枠がなく、祭りとも宮とも特定の関係を持たないと述べています。イエスはその間エルサレムにとどまっておられたと思われるものの、本文はそれを明示していません。

では、なぜ連続して読むのでしょうか。

マイケルズ自身が、10章22節から42節の場面が二つの役割を果たしていると述べています。第一に、10章19節に記された人々の「分裂」を解決しようとしていること。羊のたとえを踏まえており、26節と27節がそれにあたります。第二に、7章から8章の仮庵の祭りでの対決を呼び起こしていること。「ユダヤ人たち」がイエスの主張をめぐって挑み続けている点で、同じ流れの中にあるというのです。そして彼は、31節の石を取る行為について8章59節を、39節の逮捕の試みについて7章30節、8章20節、8章59節を挙げています。同じことが繰り返されている、という読み方です。

実際、26節でイエスは「あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです」と言われます。このことばは、10章1節から18節の羊のたとえを聞いている人々に向けられたものとして初めて意味を持ちます。また10章21節には「悪霊につかれた者に、目の見えない人の目を開けることができるだろうか」とあり、9章の癒やしが直前まで話題であったことがわかります。

エドワード・クリンク(Edward W. Klink III)は、より大きな枠組みからこの点を扱っています。彼は8章12節から10章42節までを「神の子をめぐる論争」という一つの区分とし、その中を四つのまとまりに分けています。「わたしは世の光です」(8:12-59)、盲人の証言(9:1-41)、牧者と羊(10:1-21)、そして父の子(10:22-42)です。この区分の見方に立つなら、10章後半は独立した挿話ではなく、一つの論争の締めくくりということになります。

もちろん、実際の歴史的な出来事として、9章でイエスに対峙した個々の人物と、10章後半で石を取った個々の人物とが同一であったかどうかは、本文からは確かめられません。この福音書は個人名を挙げず、「ユダヤ人たち」「パリサイ人たち」という総称を用い続けます。著者の関心は、特定の人物を追跡することにではなく、イエスに対峙する立場そのものに向けられているからです。

したがって、ここで言う連続性とは、同一人物であるという主張ではありません。著者がこれらの場面を、一続きの論争として描いているという意味での連続性です。この福音書を読む上では、そのように読む方が、著者の描き方に沿っていると思われます。

参照した注解書

  • J. Ramsey Michaels, The Gospel of John, The New International Commentary on the New Testament (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2010). ヨハネ10章22-23節の注解部分
  • Edward W. Klink III, John, Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament, ed. Clinton E. Arnold (Grand Rapids, MI: Zondervan, 2016). ヨハネ10章22-42節の注解部分

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会