『我と汝』で広く知られている、マルティン・ブーバーは、詩篇73篇において、「心」に注目してこう述べています。
心の本質的状態とは、ある人が神の慈悲を経験できる真理(真実)のもとにあるか、あるいは仮象(虚構)のもとにあるかを決断するところにある。この仮象のもとでは、ある人には「うまくゆかない」という事実が、〈神はその人に恵み深くない〉という幻像と取り違えられているのである。
決断するのは心の本質状態である。だから、「心」(Herz)はこの詩篇では支配的な言葉であり六回反復されている。
マルティン・ブーバー、稲村秀一訳『マルティン・ブーバー 義を求める祈り〜正と悪をめぐる「詩篇」黙想〜』(ヨベル、2023年)、68頁
ブーバーの指摘するように、詩篇73篇において「心」は重要な意味がありそうです。
はじめに結論から言えば、詩篇73篇が言わんとしていること、つまり詩人が至った境地は、最後で述べられているように「神のそばにいることの幸い」です。しかし、重要なのは、その結論にどのように辿り着くのか、ということであるように思います。
詩人は、苦しんでいます。それは、悪しき者たちが栄えているからです。なぜ善人が苦しみ、悪人が栄えるのか。昔から今に至るまで、人類が抱えている悩みでもあります。
詩人は悪を行う者たちの繁栄を妬みました。真面目に働くよりも、楽をして稼ぎたい。目の前でそのようにして富を手にしている人がいたならば、自分もそのようにしたいと思うのは、ある意味自然なことなのかもしれません。
しかし、そのような中にあって、詩人はその道に陥ることはありませんでした。詩人はなぜ悪人が栄えるのかを理解しようとしたのです。しかし、そのことは詩人にとって苦しみとなりました。
そのような苦しみの中で(新改訳2017「苦役」、聖書協会共同訳「徒労」)、詩人は「聖所」に行ったと言います。そこで悪しき者の最期を悟りました。結局のところ、悪しき者たちが自分の悪行を神は知らないだろうと、神を侮っていたとしても、いつの日か、全てが神の前に明らかにされることになることを詩人は知ったのです。
すると、詩人はどうしたでしょうか。詩人は悔い改めたのです。
21わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、
22わたしは愚かで悟りがなく、
あなたに対しては獣のようであった。
23けれどもわたしは常にあなたと共にあり、
あなたはわたしの右の手を保たれる。
24あなたはさとしをもってわたしを導き、
その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。
25わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。
地にはあなたのほかに慕うものはない。
26わが身とわが心とは衰える。
しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。
詩篇73篇21-26節(口語訳聖書)
さて、ここで、悔い改めの前と後で大きな変化が見られます。かつての詩人は、悪しき者たちの繁栄を妬んでいましたが、その中で、なぜ悪人が栄えるのか、その理由を見極めようとしました。しかし、それは詩人にとって苦しみでした。そしてそのことを詩人は14節において「打たれ」「懲らしめを受けた」と表現しています。悪の道に陥るのではなく、その理由を知ろうとすること。それは苦しいことであり、詩人にとっては、神に打たれ、懲らしめを受けているように感じたのです。しかし、後半ではそのイメージが全く変わっているのです。24節において、詩人は「さとしをもってわたしを導き」と言います。神の懲らしめだと思っていたことが、今となって振り返った時に、それは神が愉し、導いてくださったことであると詩人の理解は転換しているのです。
詩人は、悪しき者たちが栄えているのを羨ましく思いました。しかし、その時の自分を「獣」のようだったと悔い改めています。まさに「獣」というのは、本能で行動します。目先の利益に飛びつきます。それが正しいことか悪いことか考えることがありません。同じように、詩人も悪の道を妬んだのです。しかし、詩人は神の視点で物事を見ることを知りました。
ここでブーバーの指摘に注目するなら、詩人の「心」がそのように決断したと言えるでしょう。心がない獣のようにではなく、心を働かせて、詩人が決断したのです。神の視点で物事を見ると、詩人が決めたのです。
それでは、どうしたら、心を働かせることができるのでしょうか。ここで重要なのは、このプロセスです。詩人は、なぜ悪が栄えるのかを見極めようとしました。確かに、それは苦しみでもありました。しかし、そのプロセスを通して、神のそばにいることが何よりの幸いであることを見出したのです。そしてそれは、ただの苦しみではなく、神が愉し、導いてくださっていたことだと、詩人は感じるようになったのです。
詩人が羨ましいと思った悪しき者たち。彼らは、5節で「ほかの人々のように悩むことがなく、ほかの人々のように打たれることはない」(口語訳)と言われています。この状況は、まさに詩人の状況と対比的だと言えます。悪しき者たちもまた、獣のように、悩むことなく、考えることなく、目先の利益に飛びついています。神の視点がここにはありません。その一方で、詩人は苦しんでいます。悪の道がなぜ栄えるのかを見極めようとして苦しんでいます。詩人はそのことを14節で「打たれ」「懲らしめをうけた」と表現します。しかし、このプロセスこそ、詩人にとっては、意味あるものとなりました。なぜなら、神の視点で物事を見ること、そして神のそばにいることが何よりの幸いであることを見出すに至ったからです。
なぜ義人が苦しみ、悪人が栄えるのか。この問いは、人類共通の難問です。しかし、詩篇73篇から教えられることは、悪の道に陥るではなく、その理由を見極めようと尽くすことです。確かに、悪の道に陥ることは簡単です。獣のように、先のことなど考えずに、目先の利益に飛びつくだけでいいのですから。しかし、人間は獣ではありません。心が与えられているのです。その心を用いなければなりません。その心の状態次第で、神に打たれていると思うこともあれば、神に諭されていると思うこともあるのです。
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ちなみに、73篇において、悪しき者たちに対する厳しい言葉が見られます。しかし、これは現代において、いわゆるノンクリスチャンに向けて語られていると取るべきではないように思われます。なぜなら、彼らは神の存在を否定していないからです。11節「彼らは言う、『神はどうして知り得ようか、いと高き者に知識があろうか』と」(口語訳)。むしろ、彼らは神の存在を認めているのです。しかし、それでも神を侮っている人たちです。その点を踏まえるなら、ここで指摘されているのは、神の存在を信じているのに、神を侮る者たちです。ですので、この所から、未信者を批判することは慎まなければなりません。そのように解釈されるケースを見たことがあるので、付け加えておきました。