最初の苗を植えてから三週間が経ちました。 当初は干からびかけていたため、しっかり根付くか心配でしたが、無事に活着したようです。葉っぱも青々と茂り始めました。 しかし問題は、土の中で実際にさつまいもができているかは、まだわからないということです。さつまいも栽培の「あるある」らしいのですが、ツルだけが立派に伸びて、肝心の実がならないことがあり、それを「ツルぼけ」と呼ぶそうです。ですから、今のところ順調とはいえ、中身がどうなっているかは秋にならないとわからないところです。
さつまいもは時期を一週間ずらして、もう一畝分植えています。そちらは割と元気な苗を植えました。植えた時期が違うので単純な比較はできませんが、順調に少しずつ葉を茂らせています。 種類も最終的には3、4種類植えました。品種によって育てやすさも変わるようですが、今回は身近で売られていた苗を使っています。お隣の農家さんにお勧めされたのは「栗かぐや」という品種だったのですが、近場では入手できなかったため、無難に「紅はるか」や「紅あずま」などにしました。とても美味しいと伺ったので、機会があれば来年にでも「栗かぐや」を植えてみたいと思います。
さつまいもと同時期に、かぼちゃも植えました。こちらも順調に育っており、今は虫対策に悪戦苦闘しています。今使わせてもらっている畑が有機農法で使われてきた場所なので、私もその精神を引き継ぎ、殺虫剤等は使わないことにしています。そういった薬剤を使えば便利で効率が上がるのはわかっているのですが、あれこれ工夫して考えるのも楽しいので、この自然な方法でやっていくのも悪くないなと思っています。
かぼちゃの育て方についても少し勉強したのですが、特に重要な作業に「親蔓(おやづる)と小蔓(こづる)の間引き」があるそうです。ある本によれば、ある程度葉がついたら「親蔓を切る」と書かれていました。そうすることで、小蔓にしっかりと栄養が行き届き、大きな実をつけるのだそうです。せっかく青々と茂っている親蔓を切るのはもったいないと感じてしまうのですが、最も重要な「実り」のためには、思い切ってカットしなければなりません。
この「親蔓と小蔓」という言葉から、最近行なっている結婚の学びが少し重なりました。小蔓が成長し、実を結ぶためには、親蔓はカットされなければならない。親と子が「離れる」ことの本当の意味について考えさせられます。 結婚式でよく読まれる聖書箇所としては、ここが最も有名です。
それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。
創世記2章24節(口語訳聖書)
親と子の関係というのは、本当に不思議なものです。親は、子どもを単に「良い子」か「悪い子」かという評価では見ていません。子どもの存在そのものを、何があっても愛するのが親です。時に子どもが誤った道を進みそうになれば叱りますが、それでも子どもに対する愛の根底は揺らぎません。
そのようにして子どもが立派に成長した時、子どもは親から「離れて」いきます。親が心血を注いで育ててきた子どもですが、その所有権は親にはありません。子どもには子どもの意思と、歩むべき人生があるからです。
これは、父なる神と私たちとの関係においても同じことが言えるかもしれません。聖書は、私たち人間は神によって創造された神の子どもであると語ります。父なる神は私たちが成長できるようにと愛を注ぎ、時に訓練し、導いてくださいます。しかし同時に、そこには私たち自身の自由な意思も最大限に尊重されています。
例えば、有名なたとえ話「放蕩息子(失われた二人の息子)」(ルカの福音書15章)に出てくる弟息子は、父の財産を無理やりもらい受けて家を出ます。これは想像の域を出ませんが、父親としては、弟息子がそのような大金を持って出ていっても、決して上手くやれるとは思っていなかったはずです。その先に待つ悲惨な結果を想像できない親はいません。しかし、それでも父は弟息子の好きなようにさせました。息子には、自由に選択する権利が与えられていたからです。そして、結果的には、離れたことで、弟息子は本当の意味で父と共にいることの意味を知ることになります。
そう考えると、親というのは本当に忍耐のいる存在です。子どもを愛するが故に「あれもこれもしてあげたい」と思う反面、すべてを手取り足取りやってしまっては、子どもの本当の成長には繋がりません。ですから時には、その道が困難であることを分かっていながらも、あえて手放し、自分の足で進ませることがあるように思います。「可愛い子には旅をさせよ」ということわざは、まさに的を射ているのではないでしょうか。
かぼちゃの蔓の話からだいぶ逸れてしまった感がありますが、植物の成長を間近で見ていると、そこから人間の歩みや神様との関係について、本当に多くのことを考えさせられます。
