かぼちゃの苗を植えてから1ヶ月が経ちました。
しばらく前に、葉っぱが結構虫に食われていて、一時はどうなることかと思いましたが、苦難を乗り越え、ついにカボチャが実り始めました。

いつもスーパーで見ているカボチャでも、実際に苗から育っている様を目の当たりにすると、感動的なものがあります。実がなるためには当然受粉が必要なわけですが、実ったということは、受粉が上手くいったということでもあります。そして、それを担ったのは昆虫です。当たり前のことのようでありながら、つくづく自然界のシステムはよくできていると思わされます。
カボチャは実りが目で確認できるので少し安心ですが、一方でさつまいもは、土の中でどうなっているのかわからないので緊張が続きます。
とはいえ、だいぶひと段落したので、もう一本畝を耕し、オクラと枝豆を植えました。こちらも実ればいいなと思いつつ、楽しみが増えた今日この頃です。

目に見える収穫があると(まだ収穫はしていませんが)、これまでの苦労も報われたような気がします。ですが、私が畑をしているのは、単に野菜を育てて収穫の喜びを味わうことだけが最終ゴールではありません。
教会では毎週カレーを食べているのですが、いつの日か、そこに使う食材(野菜)をこの畑で賄うことが目標です。
では、なぜ教会の食事を賄いたいのか。それは、現代社会でもはや暗黙の了解となっている「資本主義」に対する、ささやかなアンチテーゼの実践なのです。
近年の社会情勢を振り返っても、資本主義によって貧富の差が広がることは明らかです。富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる。多くのお金を動かすことができる人が、多くを稼ぐことができる社会が資本主義社会です。
資本主義社会における単位はお金です。お金さえあればなんでもできる反面、お金がなければ何もできないという原理が働いています。そうなると必然的に「お金を稼がなければ生きていけない」わけですが、それは時に、私たちに強力な焦りを生み出したり、絶望感を抱かせたりします。お金を稼ぐことが唯一の基準になってしまい、そのフィルターを通してしか物事が見えなくなってしまうのです。
そのような社会の中で、私が日曜日の教会の食事を通して表したいのは、「お金だけが世界の基準ではない」という事実です。
そこには、お金を払えば食べ物が得られるというこの世の原理とは異なる、別の原理があります。今は個人で畑に向かっていますが、ゆくゆくは共に土に触れて労する仲間も起こされるかもしれません。お金が全てではなく、互いのために労することで食事を得る。世の中では当たり前となっている原理とは異なる価値観を、共に体験したいと願っているのです。
誤解のないように申し添えれば、私は資本主義というこの世の仕組みを真っ向から否定し、ラディカルな革命を起こしたいわけではありません。ただ、「それが全てではない」と知るだけで、人は救われ、何かが変わるのではないかと期待しているのです。
身近な例で言えば、学生時代には「学業や部活でしか自分の価値は証明されない」と思い詰めてしまうことがあります。しかし、世界がもっと広く、多様な価値観があることを知れば、そのような凝り固まった考えから解放され、もっと自由に生きることができるようになります。それに近い「解放」を、教会のコミュニティで実践したいということです。
とはいえ、このような壮大な目標をぶち上げたところで、それを達成できるかどうかは結局のところ「収穫次第」です。そして収穫とは、究極的には人間の力ではどうしようもない自然の領域でもあります。それでも、そのような目的を持って畑という土の働きに取り組むことには、個人的にとても大きな意義を見出しています。
