ローマ6章11節で使われる動詞”λογίζεσθε”について、新改訳第3版では「思いなさい」となっていたところ、新改訳2017では「認めなさい」になっていました。「思う」と「認める」では結構なニュアンスの違いがあるように思います。

このような変更というのは、その背景に原語的・神学的なポイントがあることが多いです。

ちなみに、参考までに新共同訳や協会共同訳では「考えなさい」、ESVでは”consider”となっています。

そこで、まずは翻訳プロジェクトにも深く関わっておられる鞭木氏の著作に当たってみると、こうありました。

ここで「認めなさい」というのは「見なす」ことを意味します。協会共同訳のように「考える」というのではなく、もっと能動的です。旧約聖書のギリシア語訳(いわゆる七十人訳)で、アブラハムが義と「認められた」(創世15:6)というときに使われていることばです。これは認めるべきじ事実であって、私たちが努力してたどり着く目標ではありません。パウロは「罪に死ぬように」と命じているのではなく、また「神に生きるように」と要求しているのでもありません。これはすでに私たちの事実です。私たちが認めるので事実となるのではなく、事実だからそれを事実と認めなさい、と言っているのです。

鞭木由行『パウロの福音を生きる—ローマ人への手紙5章〜8章4節講解—』(いのちのことば社、2021年)、200頁

ここで指摘されているのは、その「能動」性についてです。「考える」ことと「認める」ことには、開きがあるということです。

では、「考える」ことの何が問題なのか。それは、「主観的な感情や、心理的な努力(自己暗示)」に依存しているように聞こえてしまうという点です。

  • 「自分は罪に対して死んでいるんだと、一生懸命思い込もうとしなさい」
  • 「まだ実感はないけれど、そう考えるように努力しなさい」

このように受け取られてしまうと、信仰が「自分のマインドセットの強さ」にかかってしまい、かえって信仰者を精神的に苦しめることになります。

しかし、「客観的事実としてただ認める」だけで完結するのでしょうか。ここで、新約聖書学者であるジョセフ・フィツマイヤー(Joseph A. Fitzmyer)のローマ書注解を見てみたいと思います。彼は、この客観的事実と私たちの内面的な意識の結びつきについて、非常に示唆に富む指摘をしています。

フィツマイヤーは、ガラテヤ書2章19〜20節を引き合いに出しながら、キリスト者の生活の原則を次のように述べています。

…the ontological reality (I am in Christ) has to surface to the psychological level (I live in Christ).

(「私はキリストの内にいる」という存在論的現実が、「私はキリストの内に生きている」という心理的レベルにまで浮上してこなければならない。)

Joseph A. Fitzmyer S.J., Romans: A New Translation with Introduction and Commentary, vol. 33, Anchor Yale Bible (New Haven; London: Yale University Press, 2008), 430.

さらに、11節の”λογίζεσθε”(考えなさい/認めなさい)という命令形について、このように解説しています。

Ontologically united with Christ through faith and baptism, Christians must deepen their faith continually to become more and more psychologically aware of that union. … Christians are also to arm themselves with the mentality that they are dead to sin; for that is what has happened to them in the baptismal experience.

(信仰と洗礼を通して存在論的にキリストと結び合わされているため、キリスト者はその結びつきを心理的により一層自覚するようになるために、絶えず自らの信仰を深めていかなければならない。……キリスト者はまた、自分が罪に対して死んでいるというメンタリティ(意識/考え方)で自らを武装しなければならない。なぜなら、それこそが洗礼の経験において彼らに起こったことだからである。)

Joseph A. Fitzmyer S.J., Romans: A New Translation with Introduction and Commentary, vol. 33, Anchor Yale Bible (New Haven; London: Yale University Press, 2008), 438.

ここでフィツマイヤーが強調しているのは、キリストと結び合わされているという「存在論的現実(揺るがない客観的事実)」が、単なる教理上の知識にとどまらず、私たちの「心理的レベル(日々の意識や考え方)」にまで浸透し、到達しなければならないということです。

つまり、”λογίζεσθε”という言葉には、「認める」と「考える(思い続ける)」の両方のニュアンスが不可欠な形で含まれていると言えます。

新改訳2017が採用した「認めなさい」は、信仰の基盤が「自分の心理的努力」ではなく「神がすでに成し遂げられた客観的事実」にあることを明確にしてくれます。私たちはまず、その事実を事実として受け入れ、承認しなければなりません。

しかし同時に、フィツマイヤーが指摘するように、私たちはその認められた事実を土台として、自分が罪に対して死に、神に対して生きているという「メンタリティで自らを武装する」必要があります。事実を認めた上で、それを日々の生活の中で絶えず意識し「考え続ける」プロセスが求められているのです。

「事実として認める(客観)」という確固たる土台と、そこから生み出される「日々の意識・思考(主観)」。この両輪が揃うことで、ローマ6章11節のメッセージは私たちの歩みを真に力づけ、変革していくものとなるのではないでしょうか。