① 義認論は「危機」に瀕している

マイケル・J・ゴーマンは『Inhabiting the Cruciform God(十字架の形をした神に住まう)』の第2章を、次のように書き出しています。

The doctrine of justification is in crisis, or at least in flux.
義認の教理は危機に瀕している。少なくとも、流動的である。

Michael J. Gorman, Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul’s Narrative Soteriology (Grand Rapids, MI; Cambridge, U.K.: William B. Eerdmans Publishing Company, 2009), 41.

義認論は、宗教改革以来のプロテスタント神学を支える最も重要な教理の一つです。「信仰によって義とされる」という告白は、教会が立ちもし倒れもする教理だと呼ばれてきました。ところが近年のパウロ研究では、この義認論をめぐって激しい議論が続いています。法廷的な「無罪宣言」としての義認理解と、キリストとの「参与」を軸にした救済論が、しばしば別々のモデルとして提示されてきたからです。

ゴーマンは、この二つの救済論モデルが別々に存在するという前提そのものを問い直します。パウロにおける義認は法廷的宣言だけではありませんし、参与論は義認とは無関係な別の話でもありません。両者はもともと一つのものでした。ゴーマンはこの確信をガラテヤ書2章15-21節とローマ書6章1節-7章6節から導き出し、そこから生まれた統合的モデルを「共十字架による義認(Justification by Co-Crucifixion)」(略称JCC)と名付けました。

② パウロにとって「義認」とは何か

JCCの内容に入る前に、ゴーマンがパウロの義認をどう定義しているかを確認しておく必要があります。

従来のプロテスタント神学では、義認はおもに法廷的(juridical)な概念として理解されてきました。神が裁判官として罪人に「無罪」を宣言する、という理解です。この理解は間違いではありませんが、しかしゴーマンは、パウロ自身の文脈に沿って義認をさらに広い意味で定義します。ゴーマンがガラテヤ書とローマ書から導き出した定義は、次のとおりです。

Justification is the establishment or restoration of right covenantal relations—fidelity to God and love for neighbor—by means of God’s grace in Christ’s death and our Spirit-enabled co-crucifixion with him. Justification therefore means co-resurrection with Christ to new life within the people of God and the certain hope of acquittal/vindication, and thus resurrection to eternal life, on the day of judgment.

義認とは、神に対する忠実さと隣人への愛という正しい契約関係が、キリストの死における神の恵みと、聖霊によって可能にされたキリストとの共十字架を通じて確立ないし回復されることである。義認はそれゆえ、神の民のなかでキリストとの共復活によって新しい命に生きることであり、終わりの日における無罪宣告・弁証、すなわち永遠の命への復活という確かな希望を意味する。

Michael J. Gorman, Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul’s Narrative Soteriology (Grand Rapids, MI; Cambridge, U.K.: William B. Eerdmans Publishing Company, 2009), 85–86.

ここには伝統的な法廷的義認の要素(無罪宣告、終わりの日の判決)がしっかりと含まれています。しかし同時に、義認は「和解」と実質的に同義であり、神との関係と人との関係の双方を包含する契約的な現実として捉えられています。ゴーマンは旧約聖書の契約思想を背景に、義認には神への忠実さ(垂直的次元)と隣人への愛(水平的次元)の両方が本質的に含まれると主張します。

③ 二つのモデルか、一つのモデルか

パウロの救済論研究においては、しばしば二つのモデルが区別されてきました。一つは「法廷的モデル(juridical model)」で、神が罪人に義を宣言するという枠組みです。もう一つは「参与的モデル(participationist model)」で、信仰者がキリストの死と復活に参与するという枠組みです。多くの学者は、この二つをパウロにおける別々の思考様式として整理してきました。相互に補完的ではあるものの、基本的には異なるカテゴリーに属するものとして扱われてきたのです。

この二つのモデルをめぐっては、学者の間でも立場が分かれてきました。アルバート・シュヴァイツァーやE・P・サンダースは参与的モデルを優位に置き、法廷的モデルをその下に吸収する方向を取りました。ダグラス・キャンベルはさらに踏み込み、信仰義認モデルそのものを退けて参与的モデルに置き換えることを提案しています。逆に、多くの伝統的な立場では法廷的モデルが優先されてきました。また、両者を相互に補完的な関係として並置する立場もあります。

ゴーマンはこのいずれとも異なる道を選び、パウロにおいて救済論モデルは一つであると提案します。義認は十字架刑による、具体的には共同十字架刑による義認であり、それはキリストの契約履行の行為への参与として理解されます(”I want to suggest that for Paul there is one soteriological model: justification is by crucifixion, specifically co-crucifixion, understood as participation in Christ’s act of covenant fulfillment,” p.43)。

この提案はリチャード・ヘイズの契約的・物語的・参与的な義認解釈と共通する方向性を持っていますが、ゴーマンはそれをさらに発展させ、「共十字架(co-crucifixion)」という概念を中心に据えることで独自の統合を試みています。

④ ガラテヤ2:15-21を読む――信仰とは「死の経験」である

JCCの議論の中心テキストは、ガラテヤ書2章15-21節です。パウロはここで、ギリシア語の動詞「シスタウロー(συσταυρόω)」を用いています。この動詞は「共に十字架につけられる」を意味し、パウロ書簡では二箇所にしか現れない表現です(もう一箇所はローマ6:6)。

多くの研究者は、この箇所に二つの主張を読み取ってきました。第一に、義認は律法の行いによるのではなくキリストの信仰(ピスティス・クリストゥ)によるということ。第二に、キリストにある者はキリストと共に十字架につけられた者として描写されるということ。そしてこの二つは、関連はあるものの別々の経験として整理されてきました。義認が第一の経験、共十字架は聖化や後続的な倫理に属する第二の経験である、という整理です。

しかし、ゴーマンはこの読みに異議を唱えます。2章16-18節に集中する義認に関する用語(「義とされる」「律法の行い」など)と、2章19-20節に集中する参与に関する用語(「キリストと共に十字架につけられた」「キリストがわたしのうちに生きている」など)を切り離して読むことは、テキストの論理に反しています。パウロは義認を語った後に別の話題に移ったのではなく、義認そのものを再定義して語り直しているのです。信仰による義認とは何であるかを、パウロは共十字架の言葉で説明しています。

わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。

ガラテヤ2章19-20節(口語訳)

ここでパウロが語っているのは、信仰とは死の経験であるという驚くべき主張です。信仰(ピスティス)は、キリストとの共十字架として再定義されています。「信仰による義認」と「共十字架による義認」は、別々の経験ではなく、同じ一つの現実の二つの表現なのです。

受動態で書かれた「わたしはキリストと共に十字架につけられた」という表現には、外部からの働きかけが暗示されています。これは自力で達成する経験ではなく、神の側から始められた行為です。ゴーマンはこの点を繰り返し強調します。共十字架による義認は、いかなる意味においても「行いによる義認」ではありません。それは恵みと聖霊の働きによってのみ可能な経験です。

⑤ ローマ書6章で展開されていること

パウロが「シスタウロー(共に十字架につけられる)」を用いるもう一つの箇所がローマ書6章6節です。ゴーマンは、ローマ書6章1節-7章6節をガラテヤ書2章15-21節の拡大版として読みます。ローマ書3章20節-8章39節全体が、ガラテヤ書2章15-21節のより詳細な展開であり、その心臓部がローマ書6章にあたります。

ローマ書5章以降は、従来「義認の結果」を論じた箇所として読まれてきました。罪からの自由、死からの自由、律法からの自由といった主題が、義認の帰結として整理されるのが一般的です。しかしゴーマンの読みでは、ローマ書5-8章は義認の結果ではなく義認の意味そのものを論じています。義認がキリストとの共十字架として理解されるとき、ローマ書6章の洗礼論や死と復活の言語は、義認論から切り離された別の議論ではなく、義認論そのものの展開として読まれることになります。

ガラテヤ書において「義認言語」は2章16-18節と21節に、「参与言語」は2章19-20節に集中しています。これと同様に、ローマ書においても義認言語はローマ書3-5章に、参与言語はローマ書6章以降に集中しています。用語の分布が異なるからといって、二つの異なるモデルが存在するわけではありません。ガラテヤ書2章内での用語の切り替わりが二つのモデルを意味しないのと同じことです。

ガラテヤ書とローマ書の両方の釈義を踏まえた上で、ゴーマンは義認を形式的にだけでなく実質的にキリストの十字架に結びつけ、信仰と共十字架の関係を次のように定式化しています。

It is appropriate, therefore, to refer to faith as the formal principle (or perhaps instrument) of justification and to co-crucifixion as the material principle (or instrument) of justification.

したがって、信仰を義認の形式的原理(あるいは手段)、共同十字架刑を義認の実質的原理(あるいは手段)と呼ぶことが適切である。

Michael J. Gorman, Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul’s Narrative Soteriology (Grand Rapids, MI; Cambridge, U.K.: William B. Eerdmans Publishing Company, 2009), 103.

信仰(faith)は義認の形式的原理であり、共十字架(co-crucifixion)は義認の実質的原理です。言い換えれば、「信仰による義認」と「共十字架による義認」は同じ一つの現実を、形式面と内容面からそれぞれ表現したものにほかなりません。

⑥ 義認と聖化、そしてテオーシス

JCCがもたらす最も重要な神学的帰結は二つあります。第一に、義認と聖化の間に神学的な断裂を設けることが不可能になること。第二に、義認そのものがテオーシス(theosis、神化)であるということです。ゴーマンは議論の結論として、この二つの帰結を一つの段落でまとめています。

伝統的なプロテスタント神学では、義認と聖化は概念的に区別されてきました。義認は神による外的な宣言であり一度的な出来事、聖化は内的な変容であり漸進的なプロセスである、と。この区別自体には意味がありますが、しばしば両者の間に深い溝が生じ、義認の後に聖化が「付け足し」として続くかのような印象を与えてきました。ゴーマンはこの問題に正面から取り組みます。

Justification by co-crucifixion means that a theological rift between justification and sanctification is impossible because the Spirit of Christ effects both initial and ongoing co-crucifixion with Christ among believers, which is a symbiosis of faith and love. This symbiosis of faith and love is not an addendum to justification (such as “sanctification” or “Christian ethics”) but is constitutive of justification itself—being conformed to the image of the Son and becoming the righteousness of God, the embodiment of God’s covenant fidelity and love.

共十字架による義認とは、義認と聖化の間に神学的な亀裂が生じ得ないことを意味します。なぜなら、キリストの霊が、信仰者たちの間でキリストとの最初の、そして継続的な共十字架を成就するからです。これは信仰と愛の共生です。この信仰と愛の共生は、義認への付加物(例えば「聖化」や「キリスト教倫理」など)ではなく、義認そのものを構成するものです。それは御子の形に似せられ、神の義となること、すなわち神の契約の忠実さと愛の具現化です。

Michael J. Gorman, Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul’s Narrative Soteriology (Grand Rapids, MI; Cambridge, U.K.: William B. Eerdmans Publishing Company, 2009), 164.

義認の中にはすでに変容(transformation)が含まれており、聖化は義認への補遺ではなく、義認の構成要素です。復活のキリストは十字架につけられたキリストと同一のお方であり、復活の命は十字架の形をとり続けます。ゆえに、義と認められた者の生は必然的に十字架的な(cruciform)生、すなわち信仰と愛の共生として展開していきます。

ゴーマンの議論はさらにテオーシスへと踏み込みます。テオーシスとは、東方正教会の伝統において中心的な救済概念であり、神に似た者となるプロセスを指します。プロテスタントの耳には馴染みの薄い概念ですが、ゴーマンはこれをパウロ神学の中に見出します。十字架のキリストが神への忠実さと人への愛を究極的に体現したお方であり、かつそのキリストが神のかたち(image of God)であるならば、キリストに似た者となることは神に似た者となることです。クルシフォーミティ(十字架の形に生きること)はテオフォーミティ(神のかたちに生きること)にほかなりません。

Thus justification itself is theosis—incorporation into the life and image of the faithful and loving Christ, in whom believers live and who lives in believers. The justified become a community of cruciform generosity and justice. Justification, we said, is an exegesis of the crucifixion, and precisely as an exegesis of the crucifixion, which is where God is revealed in the Son as kenotic and cruciform, justification is theosis.

したがって、義認そのものがテオーシス(神化)なのです。それは、信仰者が生き、信仰者の内に生きる、忠実で愛に満ちたキリストの命と姿への組み入れです。義とされた者は、十字架の形をした寛大さと正義の共同体となります。義認は、十字架の釈義であると述べましたが、まさに十字架の釈義として、神が御子においてケノーシス的かつ十字架の形として啓示される場所であるからこそ、義認はテオーシスなのです。

M. J. Gorman “Inhabiting the Cruciform God,” p.164

⑦ JCCが意味しないこと

ゴーマンは、JCCの議論に伴いやすい三つの誤解を明確に退けています。

第一に、共同十字架による義認は「行いによる救い」ではありません。「わたしはキリストと共に十字架につけられた」の受動態が示すとおり、これは神の恵みと聖霊の力によって始められ、維持される経験です。ゴーマンは次のように述べています。”Nor is justification by co-crucifixion a form of self-justification or justification by ‘works,’ for it is only by grace and the work of God’s Spirit that co-crucifixion is possible”(共十字架による義認は自己義認でも「行い」による義認でもない。恵みと神の聖霊の働きによってのみ、共十字架は可能だからである。p.40)。

第二に、義認は個人的(personal)な経験ではあるものの、私的(private)な事柄ではありません。義認は公的かつ共同体的な現実です。義とされた者たちは十字架的な寛大さと正義を実践する共同体を形成します。ゴーマンがコリント第二8-9章のマケドニア教会の献金を取り上げて論じているのはこの文脈です。マケドニアの信仰者たちは「まず自分自身を主に献げ」(コリント第二8:5)、そしてエルサレムの貧しい聖徒たちのために惜しみなく献げました。ゴーマンはこれを義認の共同体的展開として読みます。

第三に、JCCは十字架の多声的な性格を否定するものではありません。ゴーマンはパウロにとって十字架は多声的であると明言しています(”For Paul, the cross is polyphonic” p.78, n.181)。キリストの死が犠牲としての赦しや、罪の権力からの解放といった意味を持つことは否定されません。参与的・契約的な理解は、犠牲的・黙示的な理解と排他的な関係にあるのではなく、それらを包含するより広い枠組みとして提示されています。

ぼくどくメモ

ゴーマンのJCCを読んでいて繰り返し考えさせられたのは、義認をどれほど「薄く」理解してきたかということです。

「義認」の教理は、もはやプロテスタント教会にすっかり定着している一方で、しばしば単に「罪の赦し」のもう一つの言い方として機能している現実があるように思います。もちろん罪の赦しは義認に含まれる不可欠な要素ですが、ゴーマンが提示するパウロの義認はそれよりもはるかに分厚いものです。つまり、義認にはキリストへの参与があり、聖霊による変容があり、共同体における具体的な信仰と愛の実践が内包されているということです。

とくに考えさせられるのは、「義認と聖化のギャップ」という問題です。よくありがちな誤解として、「義認は信仰によるもの、聖化は努力の領域」と考えられやすい傾向があります。あるいは、信仰によって救われる(義とされる)ことだけが強調されて、その後のことは関心が持たれないということもあります。しかし、ゴーマンの理解によれば、義認の中にはすでに聖化が内包されています。なぜなら、同じ聖霊がキリストとの共十字架をもたらし、それを持続させるからです。義認の恵みは、最初の一回だけのものではなく、生涯にわたって信仰者を十字架の形に造り変え続ける恵みなのです。

同時に、ゴーマンの議論がパウロの十字架の多面的な性質を否定していない点も重要です。JCCは伝統的な義認理解を否定するのではなく、深め、広げるものとして提案されています。法廷的義認の伝統が語ってきた「キリストの義の転嫁」という理解は、参与的義認の枠組みの中でも十分に成り立ちます。キリストの義が信仰者に帰されるのは、信仰者がキリストと結合し、キリストのうちに生きているからです。

ここまで、ゴーマンの主張の中でも広く知られているJCC(Justification by Co-Crucifixion)を見てきましたが、この立場をすべて受け入れるかどうかは、各人の判断に委ねられるところです。しかし少なくとも、義認を「法廷的宣言」だけに閉じ込めることなく、パウロがどれほど豊かな意味をこの言葉に込めていたかを再認識させてくれる点で、JCCは私たちの信仰理解を深める重要な貢献であると考えます。

まとめ

ゴーマンが提唱するJCC(共十字架による義認)は、パウロの救済論における法廷的モデルと参与的モデルを一つに統合する試みです。義認とは、キリストとの共十字架を通じて、神と人に対する正しい契約関係が回復されることです。信仰はこの共十字架として再定義され、義認と聖化の分離は原理的に不可能となります。そして、十字架につけられたキリストが神の自己啓示であるならば、義認そのものがテオーシス、すなわちキリストを通じて神に似た者へと変えられていくプロセスにほかなりません。

参考文献