キリスト教の救いは、罪の赦しを受けた時点で完結するものではなく、その後も続く変化の過程を含んでいます。プロテスタントの教会では、この過程は伝統的に「聖化」という言葉で扱われてきました。義と認められた者が、聖霊の働きによってきよめられ、キリストに似た者へと成長していく過程を指す言葉です。ところが教会の歴史には、この「変えられていく過程」をさらに大胆な言葉で表現してきた伝統があります。それがテオーシス、日本語で「神化」と訳される概念です。人間が恵みによって神の性質にあずかる者とされていく、という救いの捉え方を指します。
「人間が神になる」かのように聞こえるこの言葉に、私たちプロテスタントの多くは警戒感を覚えるかもしれません。しかしテオーシスは古代教会以来の正統的なキリスト教の伝統に深く根ざした概念であり、近年のパウロ研究では、パウロ自身の救済理解を表す言葉として再評価が進んでいます。本記事では、テオーシスという概念の基礎を前編・後編の2回に分けて整理します。前編にあたる本記事では、テオーシスとは何か、なぜプロテスタントがこの言葉を敬遠してきたのか、そして現代のパウロ研究でどのような再評価が起きているのかを概観します。本記事の後編では、その再評価の代表的な担い手であるマイケル・ゴーマンの議論を詳しく取り上げます。
①テオーシスとは何か
テオーシスは、ギリシア語に由来する神学用語で、「神化」「神成」などと訳されます。英語では deification(神化)や divinization(神性化)とも呼ばれます。その中心的な意味は、人間が恵みによって神の性質にあずかり、神に似た者へと変えられていくことです。この言葉を最初に定義したのは6世紀初頭の擬ディオニュシオスとされ、その定義は「神化はなし得る限りにおいて神に似たものとなり、神と一致することである」というものでした(擬ディオニュシオス『教会位階論』1章3節。大庭貴宣『エイレナイオスの聖霊神学:2世紀に解き明かされた三位一体と神化』〔ヨベル、2022年〕10頁の脚注の訳による)。
この概念は、東方正教会において救済理解の中核を占めてきました。東方の伝統では、救いとは単に罪の赦しを受けることにとどまらず、神のいのちそのものに参与し、神との交わりのうちに変容されていく過程として理解されます。
一方、西方教会ではこの概念はあまり目立ちませんでした。ゴーマンも、テオーシスはアウグスティヌスなどに見られるように西方の伝統にとって未知のものではなかったが、決して顕著な位置を占めることはなかったと指摘しています(Inhabiting the Cruciform God, 序論)。
②テオーシスが意味しないこと
「テオーシス(神化)」という言葉への警戒の多くは、誤解に由来します。ゴーマンは、東方の伝統自身がこの点を明確にしてきたと述べています。テオーシスは、人間が「小さな神々」になることを意味しません。また、英雄や皇帝が死後に神々の列に加えられるという異教的な「アポテオーシス(神格化)」とも異なります。テオーシスが意味するのは、人間が神のようになること、すなわち神の性質に似た者へと変えられることです。
したがって、創造主と被造物の区別は保持されたままです。この点は、神化の思想の最も古い証人であるエイレナイオス自身が明言していることでもあります。エイレナイオスは『異端反駁』第4巻11章2節で、神と人間の違いを次のように述べています。
そして神は人間と異なっている。というのは、神は造り、人間は生じるのである。また造る方は常に同じであるが、生じるものは、初めと真中と増加を受けなければならない。(中略)人間は神に向かって進歩と増加を受ける。
大庭貴宣『エイレナイオスの聖霊神学』85頁の訳による
つまり、人間が神の本質そのものになるのではなく、恵みによって神に向かって成長し続ける存在であるという理解です。この区別を踏まえるなら、テオーシスは汎神論的な神秘主義ではなく、聖書が語る「神のかたち」の回復と完成の教理として位置づけられます。
③聖書的な手がかり
テオーシスの教理の古典的な根拠テキストとされてきたのは、第二ペテロ1:4です。
また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。
ペテロの第二の手紙1:4(口語訳)
「神の性質にあずかる者」という表現は、新約聖書の中で最も直接的にテオーシスを語る言葉です。
教父たちはこの線をさらに展開しました。ゴーマンは、新約聖書以後のキリスト教神学におけるテオーシスの伝統は、エイレナイオスの有名な格言、すなわち「神はわたしたちであるところのものとなられた。わたしたちを、ご自身であるところのものとするためである(God became what we are to make us what he is)」に始まり、後にアタナシオスによって発展させられたと述べています。ゴーマンが注で示すエイレナイオス『異端反駁』(5巻序1)の実際の文言は、主イエス・キリストはその超越的な愛のゆえに、わたしたちであるところのものとなられた、それはわたしたちを、ご自身であるところのものにまで導くためであった、というものです(アタナシオス『言の受肉』54も参照。以上、Gorman, Inhabiting the Cruciform God, 序論の本文と注による)。
ゴーマンは脚注で、この「交換」の定式そのものが、第二コリント5:21や8:9といったパウロの交換の定式に根ざしていると指摘しています。つまり、教父の神化論は、パウロから離れた思弁ではなく、パウロ的な発想の展開として理解できるということです。
テオーシスの伝統がエイレナイオスに始まるという見方は、日本語の研究でも確認できます。エイレナイオス研究者の大庭貴宣氏は、「エイレナイオスの著作に、人間が『神に似たものとなる』あるいは『神と一つになる』を意味する『神化』についての最も古い記述を見出すことができる」と述べています(大庭『エイレナイオスの聖霊神学』4頁)。
④なぜプロテスタントはテオーシスを敬遠してきたのか
宗教改革の伝統は、義認を法廷的な宣言として明確化することに重点を置きました。信仰のみによって義と認められるという教理を守るため、人間の側の変化を救いの根拠に置くように見える言葉づかいには慎重にならざるを得なかったという事情があります。テオーシスという言葉が、功績による救いや神秘主義的な結合を連想させたことも、敬遠の一因でした。
しかし、プロテスタントの伝統の内部にも、テオーシスと響き合う要素は確かに存在します。カルヴァンは、救いの受領を論じる『キリスト教綱要』第3篇の冒頭で、次のように述べています。
先ず、第一に確定しておかねばならないのは、キリストが我々の外に立ち、我々が彼から離れている限り、彼が人類の救いのために苦しみを受けて果たされたどんなことも、我々にとって無益であり、何の意味もないという点である。それゆえ、彼は我々を御父から受けたものに与らせるために、我々の一人となり、我々の内に住まねばならなかった。
ジャン・カルヴァン、渡辺信夫訳『キリスト教綱要 第3篇』(新教出版社、2008年)8頁。第3篇1章1節。
キリストが外にとどまる限り、救いは私たちに届かない。キリストが私たちの内に住み、私たちがキリストにあずかることによって、救いは受領される。この「キリストとの結合(unio cum Christo)」の教理は、参与的な救済理解のプロテスタント版と呼びうるものです。「与らせる(あずからせる)」というカルヴァンの言葉が、第二ペテロ1:4の「神の性質にあずかる」と同じ語であることも注目に値します。
また、トゥオモ・マンネルマー(Tuomo Mannermaa)に始まる20世紀後半以降のフィンランドのルター研究は、ルターの義認論に、信仰においてキリスト自身が現臨するという参与的側面を見出しました。ゴーマンもこの研究動向に言及しており、マンネルマーの主著 Christ Present in Faith(Fortress、2005年。原著1989年)などを参照先として挙げています(Gorman, Inhabiting the Cruciform God, 第2章の注)。ウェスレーの聖化論と東方教父との関係も、近年の神化研究の中で論じられています。神化の教理が聖書からキリスト教の諸伝統を通してどのように展開してきたかについては、論集Partakers of the Divine Nature(M. J. Christensen and J. A. Wittung 編、Baker Academic、2007年)が参照先になります(ゴーマンが入門として挙げるもの。Gorman, 序論の注)。
したがって、問題はプロテスタント神学に参与の要素がないことではなく、それを表現する語彙が十分に発達してこなかったことにあると言えます。
⑤パウロ研究における再発見
ゴーマンも確認するとおり、近年のパウロ研究では、「キリストへの参与」が、パウロを理解するうえでの中心的な枠組みとして広く受け入れられるようになりました。その流れの中で、テオーシスという言葉を用いてパウロの救済論を記述する研究者が現れています。以下の研究動向の紹介は、ゴーマンによる概観(Inhabiting the Cruciform God, 序論)に基づいています。なお、ここで言う再評価は、現時点では主として学術的なパウロ研究の領域における動向です。プロテスタント教会の現場や説教で「神化」という言葉が広く用いられるようになっている、ということではありません。
ゴーマンは、この動向の担い手として次の研究を挙げています。スティーヴン・フィンラン(Stephen Finlan)は、パウロに(1)罪に対して死ぬこと、(2)道徳的変容、(3)終末論的変容という三段階のキリストへの同形化(conformity)の過程を見出し、これを「テオーシス」の名に値するものと論じました。デイヴィッド・リトワ(M. David Litwa)は第二コリント3:18の研究においてパウロのテオーシスを論じており、ゴーマンが引用するところでは、フィンランはこの箇所を「パウロにおいて最も率直にテオーシス的なテキスト(the most frankly theotic passage in Paul)」と評しています。
その第二コリント3:18は次のとおりです。
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
コリント人への第二の手紙3:18(口語訳)
このほか、御子のかたちに似た者となるようあらかじめ定められていることを語るローマ8:29、天に属するかたを表す「かたち」を着ることを語る第一コリント15:49、キリストの死と同じ状態になることと栄光のからだへの変容を語るピリピ3:10、21などを、ゴーマンは、フィンランらがテオーシスを反映するものとして特に注目してきた箇所として列挙しています。またゴーマンが注で紹介するところでは、リトワは、ここで言うテオーシスがヘレニズム文化に広く見られるような神との融合ではないことを特に強調しています(以上、Gorman, Inhabiting the Cruciform God, 序論による)。
⑥ゴーマンの提案
こうした流れの中で、ゴーマンの『Inhabiting the Cruciform God』(2009年)は、テオーシスをパウロ神学の記述に本格的に導入した研究の一つです。ゴーマンの提案の独自性は、テオーシスを「十字架」と結びつけた点にあります。ゴーマンは、パウロにおけるテオーシスを次のように定義しています(Inhabiting the Cruciform God, 序論)。
Theosis is transformative participation in the kenotic, cruciform character of God through Spirit-enabled conformity to the incarnate, crucified, and resurrected/glorified Christ.
Michael J. Gorman, Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul’s Narrative Soteriology (Grand Rapids, MI; Cambridge, U.K.: William B. Eerdmans Publishing Company, 2009), 7.
テオーシスとは、受肉し、十字架につけられ、復活・栄化されたキリストへの、御霊によって可能とされる同形化を通して、ケノーシス的で十字架の姿をとる神の性質に変容的に参与することである。
神に似た者となることが、栄光や力の獲得ではなく、自らを空しくすること(ケノーシス)、すなわち十字架の姿への同形化として定義されている点が、この定義の核心です。ゴーマンは、本書はテオーシスの詳細な記述や擁護を目的とするものではないと断ったうえで、続く各章でパウロのテキストを検討しながら、この理解を論証していくと予告しています。ゴーマンにとって、キリストの十字架は神の性質そのものの啓示であるため、キリストに似ることは神に似ることであり、クルシフォーミティ(十字架の姿への同形化)はテオフォーミティ(神への同形化)にほかなりません。
ゴーマンはまた、テオーシスはパウロにおける救いの全過程を記述する唯一の言葉ではないかもしれないと留保したうえで、それでもこの語を用いないことは、パウロ神学のおそらく核心にあるもの、すなわち十字架につけられたキリストにおいて啓示された神への、御霊による全面的な同一化と参与という物語的救済論を、深刻に見誤らせることになると述べています。ちなみに、ゴーマンの言う物語的救済論とは、救いを個々の教理の組み合わせとしてではなく、一つの物語として捉える理解のことです。キリストが自らを空しくし、十字架に至り、復活へと高められたという物語に、信じる者が御霊によって入れられ、その物語を自分の生として生きること、それが救いだという捉え方です。
本記事の後編では、この提案が最も体系的に展開される同書第3章を取り上げます。上の定義はゴーマンが序論で示す最初の形であり、第3章にはこれを拡張した最終形の定義(125頁)が置かれています。その拡張の意味も後編で扱います。そこでゴーマンは、パウロにおける「聖化」がテオーシスとして再定義されるべきことを、第一テサロニケ、ガラテヤ、第一・第二コリント、ピリピのテキストの読解を通して論じています。なお、この章の前提となる同書第2章の議論、すなわち義認を「キリストとの共死による義認」として捉え直す議論は、別の記事で紹介しています。
ぼくどくメモ
「神化」という言葉を初めて聞いたとき、私自身も身構えたことを覚えています。しかし調べていくと、これは人間の高慢の教理ではなく、むしろ徹底した恵みの教理であることがわかりました。神の性質にあずかることは、私たちが成し遂げることではなく、キリストにおいて神が始めてくださった変容のみわざだと言えます。そしてゴーマンを読んで気づかされたのは、その変容の行き着く先が栄光の座ではなく、仕える者の姿だということです。「神のようになる」ことへの誘惑がアダム以来の罪の原型だとすれば、テオーシスはその誘惑への福音的な答えなのかもしれません。神は、蛇が示したのとは全く別の仕方で、私たちをご自身に似た者としてくださるのです。
参考文献:
・Michael J. Gorman, Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul’s Narrative Soteriology (Eerdmans, 2009), Introduction.
・大庭貴宣『エイレナイオスの聖霊神学:2世紀に解き明かされた三位一体と神化』(ヨベル、2022年)
