一昔前とは違って、今では知りたいことは何でもと言っていいほどインターネットを介して得ることができます。私自身もこの恩恵を計り知れないほど受けている一人です。日本語で読めるキリスト教関連のサイトも増えてきつつあります。非常に便利な時代になりました。
その一方で、負の側面があることも事実です。今では、知りたいことを調べればすぐに「答え」が見つかります。ですが、それは本当の「答え」なのかというとなかなかそうとも言えません。これは、「フェイクニュース」という言葉が昨今流行っていることからも、あらゆる「情報」に関して言えることですが、それが本当に正しいのか、事実なのかということを確認する必要があります(ファクトチェック)。その際、データによって正しいことを確認できる情報ならよいのですが、聖書の内容について必ずしもいつもデータが揃っているとは限りません。また、実際に自分自身の思いがついて来られるかと言うといつもそうとは言い切れません。例えば、聖書には「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」(マタイ5:4)とあります。これは確かに真理です。ですが、いざ自分がそのような状況に陥るとしたら、誰でも悲しみたくないと思うのが普通の反応です。なかなか気持ちが追いつきません。
ですので、私たちにとって、聖書の言葉を「確かめる」には、実際にそのみことばに生きてみるしかありません。先程の例で言えば、悲しみの中に慰めがあることを信じ、生き続ける中で実際に体験していくことになると思います。形式としての「答え」はいくらでも得ることができますが、実際に自分のものとして受け入れられるかは別の問題のような気がしています。
今は簡単に調べ物ができる時代ですが、一昔前はそうではありませんでした。宗教改革者の一人であるジャン・カルヴァンの著作を読むと、現代のような便利な機器もない時代によくここまで聖書を調べたなと思わずにはいられません。とても緻密に読み込んでいて、聖書全体が頭の中で理路整然と構築されているような、いわばネットワークがあるように思われます。ですが、その神学は単なる机上のものではありません。カルヴァン自身が信仰者として生きるその歩みの中で紡ぎ出されたものです。これはその当時の状況、彼の生涯を知るとよりはっきりわかります。まさに、みことばに生き続ける中で、多くの問題に直面しながらも、聖書の真理を自分の答えとして見つけていったように思われるのです。
この時代にあっても、あらゆる情報に簡単にアクセスできるかもしれませんが、真理を求め続けていくという姿勢はきっと有益なものだと思います。人の受け売りではなく、自分で紡いでいく、あるいは共に紡いでいく一人一人の神学は、決して揺らぐことのない信仰の土台となっていくのではないでしょうか。
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