聖書にはイエスの系図が二つあります。マタイの福音書とルカの福音書です。ところが、この二つを読み比べると、登場する人物が全く異なることに気づきます。たとえばヨセフの父は、マタイでは「ヤコブ」、ルカでは「エリ」となっています。これは矛盾なのでしょうか?

結論から言えば、この「違い」に注目しすぎると、ルカが系図を通して伝えようとした本当のメッセージを見逃してしまいます。この記事では、二つの調和説を紹介しつつ、ルカの系図が本当に語っていること―イエスは神の子である―を聖書学の視点から読み解いていきます。

聖書にある二つの系図―なぜ内容が違うのか

イエスの系図は新約聖書に二つあります。一つはマタイの福音書、もう一つはルカの福音書です。どこの誰かもわからない人の名前がひたすら羅列されている系図を読むことは、聖書通読の壁の一つとなっています。系図はストーリーに関係ないからと読み飛ばしてしまうこともあるかもしれません。

しかし、この二つの系図をじっくり読み比べると、どちらもイエスの系図でありながら、全く異なる人たちが登場していることに気づきます。

見比べてわかる「ヨセフの父」問題

わかりやすいところで言えば、ヨセフの父が、マタイの福音書では「ヤコブ」、ルカの福音書では「エリ」となっています。また、ダビデに続く者として「ソロモン」(マタイ)か「ナタン」(ルカ)かという分岐点もあります。さらにルカの系図はアブラハムを超えてアダムにまでさかのぼりますが、マタイはアブラハムから始まります。

これは矛盾なのか?

一見すると、マタイとルカには明らかな「矛盾」があります。古くから多くの神学者や注解者がこの問題に取り組んできました。ただ、結論を先に言っておくと、この「矛盾」をどう調和させるかという問いだけに注力しすぎると、各著者が系図を通して伝えようとしたメッセージを見逃してしまいます。

二つの系図を調和させる試み

このような異なる記事を調和する試みは古くからなされてきました。代表的な説を二つ紹介します。

①マタイはヨセフの系図、ルカはマリアの系図とする説

この説は至ってシンプルで、マタイの方はヨセフの系図を、ルカの方はマリアの系図を示しているというものです。とすると、ルカではヨセフの父が「エリ」となっていますが、これはマリアの実の父ということになります。では、なぜマリアの父がヨセフの父となるのかといえば、ヨセフがマリアとの結婚の際に婿入りしたからということになります。

この説を採用する場合、マリアは必然的にヨセフと同様にダビデの家系となります。マタイとルカの系図の違いは、ダビデに続く者として「ソロモン」(マタイ)か「ナタン」(ルカ)かが分岐点となっています。したがって、ダビデ→ナタン→…→マリアという可能性が生まれてきます。

②レビラート婚で説明する説

旧約聖書の律法の中に、結婚(再婚)に関するこのような教えがあります。

兄弟が一緒に住んでいて、そのうちのひとりが死んで子のない時は、その死んだ者の妻は出て、他人にとついではならない。その夫の兄弟が彼女の所にはいり、めとって妻とし、夫の兄弟としての道を彼女につくさなければならない。

申命記25章5節(口語訳聖書)

この説を採用した場合、ヨセフの父(ヤコブとエリ)は兄弟または異母兄弟となります。どちらかが先に亡くなったので、レビラート婚の教えに従って、もう一人の兄弟が未亡人と再婚することで、ヨセフには二人の父がいることを説明します。そうすると、一人は実の父で、もう一人は法律上の父となります。

牧師として正直に言うと―どの説も推測の域を出ない

以上の二つ以外にも、マタイでは王家の系図を、ルカでは実際の(物理的な)系図を示しているという説もあります。このように、ヨセフに二人の父がいることを調和する試みは様々なされているわけですが、はっきり言って、どの説も推測の域を出ません。

このような聖書の矛盾と思われる箇所を探求することには意味があると思いますし、きっと何かしらの説明はできるのだろうとも思います。しかしながら、一つの可能性にすぎない説を強調しすぎるのは、個人的にはどうなのかと感じます。注解書やネットの記事を読んでみても様々なことが言われており、何かしらの説を採用しないと疑問が残るから、数ある説の中から一つを選んでいるという背景もあるかもしれません。それはそれで大事なことですが、あまりにもそこに注力しすぎると、本筋を見逃してしまうことになりかねません。

では、何が大切なのか―著者ルカの意図を読む

大切なことは、イエスの系図は二つあり、マタイもルカも違う意図を持って系図を取り入れているということです。つまり、系図の内容そのものも重要かもしれませんが、そればかりに目を奪われずに、著者が意図したメッセージを汲み取ることが重要なのです。

系図の「配置」に注目する

ルカにおける系図の位置はマタイのそれとは異なり、一見すると不自然な配置になっています。しかし福音書において、出来事の不自然なつながり(前後関係)は、むしろ注目ポイントと言えます。前後の出来事との関係に注目してみましょう。

「ヨセフの子と考えられていた」の意味

系図が始まる直前にはこのように記されています。

イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった。

ルカによる福音書3章23節(口語訳聖書)

ここで「人々の考えによれば」というのは、人々はイエスをヨセフの子だと思っていたが、「しかし、そうではない」というのがルカの意図していることです。これは、イエスがヨセフの子ではないと言っているのではなく、確かにイエスはヨセフの子ではありますが、本当はイエスは「神の子」であるということを伝えています。系図をさかのぼるとアブラハムを超えて、アダムにまで連なり、最後には神にまで至るからです。

洗礼・系図・荒野の試み―「神の子」という一つのテーマ

このテーマは、前後の文脈からも明らかです。系図が挿入されている直前の出来事は、イエスが公生涯を始めるにあたってバプテスマのヨハネから洗礼を受ける場面です。

さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、 聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

ルカによる福音書3章21-22節(口語訳聖書)

これから宣教活動を始めるという最初の場面で明らかにされていることは、イエスは神の子であるという天からの声でした。そしてこのテーマは、系図の後の出来事にも続きます。洗礼を受けられた後、イエスは悪魔から荒野での試みを受けます。

そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」…「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。」

ルカによる福音書4章1-13節(口語訳聖書)

荒野の試みの中で繰り返されている悪魔の言葉は「あなたが神の子であるなら」という言葉です。ここでもイエスが神の子であるかどうかということが中心主題となっています。

このような文脈に注目すると、系図が配置されている場所とその意図が浮かび上がってきます。すなわち、ここで系図が示していることは、イエスは神の子であるということです。このような前後の関係を踏まえない限り、こんなに唐突に系図を挿入する意味がありません。

ルカの系図が伝えるメッセージ―イエスは全世界の神の子

イエスは神の子である、ということがルカの意図したメッセージですが、もう一つ言えることがあります。それは、そのイエスは世界を救うための「神の子」であるということです。

ルカの系図ではアダムまで含まれていますが、それはつまり、全人類の系図でもあるということです。ルカは全人類の系図をここに挿入することで、イエスが全世界のために生まれてくださった神の子であることを端的に示していると考えられます。そして、この全世界という視点は、ルカの福音書および使徒の働きにとって中心主題でもあります。

まとめ

二つの系図を調和させるという試みは、必ずしも意味のないことではありません。しかしそればかりに傾注するのではなく、マタイとルカのそれぞれの系図がどのような意図を持って配置されているのかに注目する方が、聖書のテキストを忠実に読む上でより重要ではないかと思います。

「矛盾」を解消することに必死になるあまり、著者が読者に伝えたかったメッセージを見逃してしまうとしたら、それはもったいないことです。ルカが系図を通して伝えたかったこと、それはシンプルに、このイエスこそ神の子であり、全人類の救い主であるということです。

系図の「矛盾」は、そのメッセージを際立たせるための入口にすぎないのかもしれません。