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ブログ 聖書
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 神学校での学びを終えて、今は現役牧師をしています。主な仕事は「みことばを語ること」でありますが、その中心はやはり聖書を学ぶことだと常々感じています。「学ぶ」と言うと、聖書は学問とは違う!という声が聞こえてきそうです。私もある意味ではその意見に同意しますが、やはり聖書は「学ぶ」ものであると思います。なぜなら、聖書に書かれていることは「難しい」からです。ですが、「難しい」というのは、いわゆる理解不能ということではなく、一生探求し続けるものである、ということです。言い換えるなら、「A=B」のような公式が前提としてあるわけではなく、その公式を探し続けるようなものだと思います。そう言うと、また「そこには変わることのない真理がないのではないか!」と聞こえてきそうです。ですが、私はそうは思いません。なぜなら、求め続けることの原動力が生まれるのは、みことばにこそ変わることのない真理があると信じているからです。

 それでは、聖書を学ばないとしたら、あるいは、わかりやすいところだけ、つまり聖書の表面的な理解だけではどうなるでしょうか。例えば、「神は愛です」「信じたら救われる」という言葉は、多くの人が聞いたことがあるキリスト教の特徴です。もちろん、これらは真理であり、私もそのように信じています。ですが、先ほどの言葉を使うなら、それは「公式」であり、それを知っているだけでは不十分です。なぜそう言えるのでしょうか。それは、その公式は正しいのか、その公式をどのように用いたらよいのか、がわからないからです。私が高校生の時に、一番好きだった授業は「化学」です。化学にはたくさんの「公式」がありますが、一つも覚えませんでした。それは担当の先生の授業方針でした。公式を覚えるのではなく、公式の出し方を自分で考える習慣を教わりました。そうすることで、なんの脈絡もない公式をただ暗記するのではなく、その都度考えながら計算することができ、結果的に公式も自然に身についていました。

 公式ありきではなく、公式を自分で計算すること。この姿勢は聖書を学ぶ上でも非常に重要なのではないかと改めて思わされています。聖書が言っていることは、どのように確かだと言えるのか。そして、それが自分の生活に、人生に、そしてこの世界にどのような意味があるのか、聖書を学ぶことを通してわかってきます。それは決して一朝一夕になされるものではありませんが、地道な一歩は壮大な大地を踏み締める確かな一歩であると言えます。

 私がこのブログを始めたきっかけはいくつかあります。中でも一つの大きな理由は、聖書を学ぶ時に何から始めたらよいかわからない、そのような方のために何かしたいと思ったからです。現代では、何かを調べようと思ったら、真っ先にインターネットで検索します。ところが、キリスト教後進国の日本では、ネットで調べられる日本語の情報には限度があります。さらに、求めていた情報に辿り着いたとしても、その内容が非常に偏っていることもしばしばあります。もちろん、このブログが発信していることが全て正しいと言いたいわけではありません。私の個人的な願いは、それぞれが神のことばである聖書を読み、そしてそこから学び、自分で「公式」を発見していただきたいということです。そのための一助となればと願っています。

 そこで、聖書を学ぶことのきっかけとなるような、また聖書は面白く、奥が深いということを知っていただけるような情報を発信していきたいと思っています。同時に、読者の皆さんとの対話も楽しみたいと思っています。聖書を学ぶということは、旅のようであり、その旅の中で様々な人と出会います。それぞれが「私はこのように読み、このように『公式』を発見しました」という対話の中で、それぞれに新しい発見、気づきがあることを期待しています。

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