ロシアのウクライナ侵攻から今年の2月で3年が経ちました。今も戦火の中にいる人たちを思うと、やるせない気持ちになります。
最近、ウクライナへの支援活動を3年前から行っている宣教師のお話を聞きました。やはり、実際自分の目で見て、現地の人と関わって来られた方の話はとても重たいものがありました。しかし、直接聞かないとわからないこともあることを教えられました。
話の中で印象的だったのは、ウクライナの人々がこのような状況の中で聖書を手に取り、読み始めたということです。ウクライナはいわゆるキリスト教国ですが、それまで自分で聖書を読むことがあまりなかったと聞きました。もちろん、これは全員に当てはまるということではないと思いますが、少なくとも、出会った方々が支援物資の中から聖書を手に取り、またみことばの取り次ぎを求めるその姿からは、これまでとは違った変化を感じられたということでした。
苦難の中で神を求めるということは、聖書の中に見られる信仰者の姿の一つです。たとえば、『詩篇』を読んでみても、苦しみの中で神を呼び求める詩人の姿が数多く記されています。苦難の中にあっても、神の恵みを見出し、感謝することができるなら、それは幸いなことです。
しかしながら、苦難には必ず意味があるということは、必ずしも言えないということも、受け入れざるをえない現実であるようにも思います。
そのことを顕著に示すのが『ヨブ記』です。『ヨブ記』を読む上で重要なのは、冒頭に記されている前提にあるように思われます。
ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。
ヨブ記 1:1(口語訳聖書)
ヨブは正しい人であるという前提の元、ヨブ記のストーリーは展開していきます。
そして、ヨブは持っているすべてのものを失うという悲劇に見舞われます。すると、ヨブの友人たちがやってきて、苦難の理由をあれこれ挙げてはヨブに忠告します。最終的に、ヨブに苦難の理由が明かされることはありません。
しかし、『ヨブ記』の読者は知っています。なぜヨブがこんな目にあったのか。それは冒頭で言われている通りです(ヨブ1:6-12)。
ヨブ記というのは、私たち人間にとって、非常に現実的な事柄が取り扱われているように思います。時に人は、苦難の理由を知ったつもりになってああだこうだ言ってしまうものです。しかし、それはその苦難の中にいる人にとっては、時に「余計なお世話」だと感じることもありますし、傷口に塩を塗ることにもなりかねません。
人間にはすべてのことの意味がわかるわけではありません。そのことを謙虚に認めることも、神の前に生かされている存在として必要な姿勢なのではないかと思わされます。
ヨブの友人はヨブの苦しみの理由について、あれこれ言いました。ヨブはそれに対して反論するわけですが、ヨブもまたその理由は知らないのです。結局、最後にはヨブはそのことを認め、神の前に悔い改めています。
『無知をもって神の計りごとをおおう この者はだれか』。
それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、 みずから知らない、測り難い事を述べました。
ヨブ記42:3(口語訳聖書)
苦難には理由があるということは、一面においては真理だと言えると思います。しかし、それを人間が知り得るかと言えば、必ずしもそうではありません。もちろん、自分自身の人生を振り返った時に、あの苦しみがあったからこそ、今の自分があるという経験は誰にでもあると思います。しかしそれは、日々の歩みの中で気づくことであって、ヨブの友人たちのように、人から言われて知るということでは、必ずしもないように思います。また、苦しみの意味が今もわからないということも当然あるだろうと思います。人生というのは、単純には測ることができないものであることは、誰もが実感しているのではないでしょうか。
そのような複雑な人生で、誰もが苦難を経験します。その意味が必ずしもわかるわけではないかもしれません。しかしそれでも、私たちの問いを神様に投げかけることが許されていることは感謝なことです。現時点で、私が苦難の中に意味を見出せるとしたら、それは神に求め、神と共に歩む人生へと招かれていることです。
御子イエスも父なる神に十字架上で問いかけました。
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マタイの福音書27:46(口語訳聖書)
この問いかけに対する答えはすぐには与えられませんでした。
話を戻しましょう。ウクライナの人々の苦しみは、私なんかが理解できるとは到底思えません。しかし、今回、実際身近で支援活動を行っている方から、当事者たちがどのようにこの出来事を見つめているのかを聞くことができて感謝でした。これは報道では知ることのできない声だと思いました。私自身も、外の人間でありながら、その苦しみをどのように共に担っていくことができるのか、神様に問いかけながら、自問し続けたいと思わされました。