『使徒信条』の一節に、「ひとり子」というフレーズがあります。このことについて少し考えてみたいと思います。

4-5世紀に、イエスが「人」であるのか、それとも「神」であるのか、という議論がありました。結論は、人であり神である、というものです。確かに、人間的には理解できることでも、説明できることでもありませんが、しかし、事実イエス・キリストは神であり人であるというのが、聖書全体から浮かび上がる理解です。そして、そのことを端的に告白しているのが「カルケドン信条」でしょう。

それでは、イエスが「人」であり「神」であることさえ押さえていれば、「子」である必要はないのでしょうか。このような疑問を聞いてくださる方がおられました。私も、神の「子」である必要性について、そこまで考えたことがなかったので、新鮮な疑問に感じました。

たとえば、神の子ではなく、父なる神の「弟」ではいけなかったのでしょうか。

まず、前提として「三位一体」の教理を踏まえるなら、神ご自身ではないということが、出発点になるかと思います。その上で、神との関係性を考えた時に、「子」ではなく、「弟」ではだめなのでしょうか。

よく知られている箇所に、ヨハネの福音書3章16節があります。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネによる福音書 3:16(口語訳聖書)

この「ひとり子」が「神の弟」であったら、何か問題が生じるでしょうか。

このことについては、いくつかの視点が考えられると思います。

まず父なる神からの視点です。この場合、父なる神とイエスの関係が、親子か兄弟かということになりますが、一般的に考えて、親子の愛と兄弟の愛のイメージは、多少なりとも異なるものだと思われます。そして、どちらの愛が「大きい」かと言えば、これも一概には言えませんが、親子の愛の方が「大きい」と言えるのではないかと思われます。例えば、よく親は子に対して「無償の愛」を与えると言われたりしますが、兄が弟に「無償の愛」を与えるとは言いません。もちろん、そこに愛がないというわけではありませんが、親子の愛というのは、別格のものであるように思われます。やはり、両親(親)から出てきたのが子なわけですから、兄弟(姉妹)とは本質的に異なるものであるということは言えそうです。その点において、やはり父なる神の愛が注がれているのは、やはり「弟」ではなく、「子」である必要性はあると言えるのではないでしょうか。

イエスがいかに父なる神に愛されていたのか、公生涯のはじめでこのように言われています。

すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

マルコによる福音書1章11節(口語訳聖書)

次に私たち人間からの視点です。イエスを信じる者は、神の子とされると聖書は語ります。

しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。

ヨハネによる福音書 1:12(口語訳聖書)

この場合、もしイエスが神の「弟」であった場合、私たちはイエスの兄弟姉妹ではなく、「甥(姪)」ということになります。私たちにとって、イエスは叔父であるという関係になります。かたや、イエスは信仰者の模範でもあります。人間にはなしえなかった神に従う道、その生き方を示されたのがイエスであり、信仰者はイエスによって示された生き方に倣う者です。その際、イエスとの関係が、兄弟であるのか、それとも叔父と甥(姪)であるのかは、あくまで印象ですが、異なるように思います。

また、イエスの務めを考えることも重要です。イエスはイスラエルの民に果たすことのできなかった父なる神への信頼を完全に現すためにお生まれになりました。その意味において、イエスは完全なイスラエルです。そもそも、イスラエルの民は、神の民、神の長子であるというのが、出エジプトをはじめ、旧約聖書において一貫して語られていることです。そのような背景を踏まえるならば、イエスが神の「子」であるということは辻褄があっています。

これらのことから、イエスは「子」である必要性があったと言えそうですが、皆さんはいかがでしょうか。こんな疑問を考えても仕方がないという意見にも一理あります。しかしそれでも、このような些細な疑問にも真剣に向き合うことが、聖書のメッセージを深く理解するために必要なことだと思います。たとえば、後に異端とされたアレイオス主義がイエスは「被造物」だと主張したからこそ、イエスは被造物ではないということが明確になりました。それに通じているかは分かりませんが、聖書を読みながら浮かんでくる素朴な疑問について考えることは、決して無駄なことではないと思います。