しかしあなたは罪をゆるす神、恵みあり、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かにましまして、彼らを捨てられませんでした。
ネヘミヤ記9章17節(口語訳聖書)
ネヘミヤ記9章は、捕囚から帰還したユダヤ人が、神の前で民族の罪を告白する場面です。17節は、その告白の中核をなします。民はエジプトの奴隷状態から解放された直後、金の子牛を造って拝み、神に背を向けました。常識的に考えれば、この背きに対して神の怒りは即座に下されるべきでした。しかし聖書は、その時の神の反応を別の言葉で描きます。ヘブライ語の「エレク・アパイム」(אֶרֶךְ אַפַּיִם)は「怒ることに遅い」を意味し、怒りを発動させるまでに長い時間をかけられる神の姿勢を表しています。これは単なる緩慢さではなく、愛ゆえの意図的な忍耐です。同時に「ラヴ・ヘセド」(רַב־חֶסֶד)—「いつくしみ豊か」という表現も、神の本質の中心を示しています。イスラエルの民は何度も背きましたが、神はその都度、決して彼らを「捨てられなかった」のです。
この神の忍耐がどこから生じるのかを知ることは、私たちの信仰の土台を確かなものにします。神がただ行為を見て見ぬふりをしているのではありません。むしろ、神は民の回復を信じ、その時を待つ選択をされたのです。パウロが「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」(ローマ2:4)と語るように、神の忍耐は、罪人が立ち返る道を開き続ける具体的な愛の表現です。神の忍耐は、私たちの背きを甘やかすものではなく、頑なな心を内側から溶かし、真の和解へと導くための静かで力強い働きなのです。
この「決して捨てない」という神の忍耐と愛が、最も深い形で現されたのがキリストの十字架です。十字架とは、神が遠く離れた安全な場所から、私たちの身代わりに罰を与えて済ませた出来事ではありません。むしろ、私たちが抱える罪や痛み、絶望の最も深い底にまでキリストご自身が降り立ち、私たちの現実に「共に(参与)」してくださった出来事です。私たちが神に背き、道を見失っているそのただ中にまで、主は共にいてくださるのです。キリストの死と復活は、この忍耐強い神が、決して私たちを見捨てず、共に新しい命へと歩み出してくださるという究極の宣言です。自分の弱さや繰り返す失敗に気づく時、私たちはそこから逃げ出すのではなく、すでに私たちの現実に参与し、静かに待っていてくださる神の恵みの中に、安らかに立ち返ることができるのです。
