キリスト教の信仰の基準として世界で最も親しまれている『使徒信条』。そのなかに登場する「ポンテオ・ピラト」という人物の名は、幸か不幸か、長い間世界中で覚えられ続けています。
彼はイエスを尋問し、「あの人に何の罪も見いだせない」と公然と宣言しながら、次の瞬間にはイエスを十字架へと送り出します。個人の良心と権力の間で揺れ動いたピラトの陥ったパラドックスは、いつの時代にもみられる人間のありのままの姿です。
このように考えると、ピラトという人は、単なる歴史上の冷酷な総督ではないように思われます。むしろ、皇帝からの期待と、目の前の民衆の圧力との間で、いわば板挟みの立場でもありました。そして、ピラトの決断を揺さぶったのは、自分自身の良心と、自分の権力の座を脅かそうとする圧力によるものでした。このようなピラトが陥ったパラドックスを解き明かすことは、現代を生きる私たちの内側に潜む「弱さ」を直視することに他なりません。
崩れ去った「ローマの正義」とカエサルの影
総督ピラトは、ユダヤにおいて「ローマの正義」を執行する最高責任者でした。当時のローマ帝国のイデオロギーにおいて、皇帝(カエサル)こそが世界に「神の正義」をもたらす代理人であると宣伝されていました。
注目すべき聖書の記述は、イエスがローマへの反逆者などではなく、完全に無実であることをピラトが知っていたということです。ヨハネの福音書では、ピラトは実に3度も「私にはこの人に何の罪も見出せない」と公式に無罪を宣言しています(ヨハネ18:38、19:4、19:6)。すなわち、ローマ法に照らせば、イエスは当然釈放されるべき人間だったのです。
しかし、ピラトのその正しい認識は、権力の座を脅かす圧力によって脆くも崩れ去ってしまいます。ユダヤの指導者たちがピラトを脅したからです。
これを聞いて、ピラトはイエスを許そうと努めた。しかしユダヤ人たちが叫んで言った、「もしこの人を許したなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王とするものはすべて、カイザルにそむく者です」。
ヨハネによる福音書19:12(口語訳聖書)
「ユダヤ人たち」とは誰だったのか
よく知られているこの裁判の場面において、イエスを十字架につけろと要求した「ユダヤ人たち」とは、いわゆる「群衆全体」であったのか、というのは議論が残るところです。
それまでイエスに対して好意的であった大勢のユダヤの民衆が果たして、昨日の今日で手のひらを返したようにイエスを十字架につけろと叫んだのか、ということは一考に値します。むしろ、これは一部の宗教指導者たちやその関係者であったと考えた方が自然かもしれません。
近年の聖書学においても、新約聖書における「ユダヤ人」という言葉をどう翻訳し解釈するかは、非常に慎重に議論されています。たとえば、パウロが第一テサロニケ2:14-16などで「主イエスを殺したユダヤ人」と記している箇所についても、これはユダヤ民族全体を指すのではなく、イエスの十字架に関与した「特定のユダヤの指導者たち」に限定して理解すべきであると指摘されています。
ヨハネの福音書においても「ユダヤ人」という表現にはネガティブな印象が伴うことがありますが、私たちはこれを「ユダヤ民族全体がイエスを拒絶した」と短絡的に読むのではなく、人間の権力欲や宗教的既得権益がいかに真理を歪めるかという、普遍的な人間の罪の姿として読むべきでしょう。ピラトの弱さも、彼らの叫びも、決して私たちと無縁ではないのです。
帝国の物語への挑戦
ここでピラトが恐れたのは、究極の権力者カエサルです。もっと言えば、自分自身の地位が剥奪されることでした。
ここで起こっていたのは、単なる宗教的対立ではなく、「どちらが世界の真の主であるか」という帝国のイデオロギーとの衝突でした。近年の新約聖書学(「パウロと帝国」の研究)において、このテーマはスコット・マクナイトらが編集した学術書のタイトルにもあるように、まさに次のような言葉で象徴的に議論されています。
“Jesus Is Lord, Caesar Is Not” (イエスが主であり、カエサルではない)
結局のところ、ピラトは保身のために自分自身の「正しさ」を捨て、イエスを十字架につけることでカエサルへの忠誠を選びました。ピラトは権力によってイエスを葬り去り、勝利したかのように見えました。しかし、新約聖書のメッセージはまさにその帝国の根幹を揺るがすものでした。新約聖書学者ピーター・オークスは、マイケル・F・バードの言葉を引用しつつ、初期キリスト教の言葉がローマ帝国に対して持っていた危険性について次のように指摘しています。
It is not simply the ‘parallel’ terminology that Paul uses like Kyrios or euangelion, but the apocalyptic and messianic narrative that such language is couched in that makes it tacitly counterimperial.”
【拙訳】パウロが主〔キュリオス〕や福音〔エウアンゲリオン〕といった並行する用語を用いていることだけでなく、そうした言語が包み込まれている黙示的・メシア的物語こそが、それを暗黙のうちに反帝国的〔tacitly counterimperial〕なものにしているのである。
Peter Oakes, “Paul and Empire,” in The State of Pauline Studies: A Survey of Recent Research, ed. Nijay K. Gupta, Scot McKnight, and Erin M. Heim (Grand Rapids, MI: Baker Academic: A Division of Baker Publishing Group, 2024), 111.
ピラトが歪めた「ローマの正義」の暗闇の中で、神は十字架と復活を通してご自身の真の「正義」と愛を世界に示し、カエサルではなくキリストこそが真の王であることを宣言したのです。
二つの王国の激突と十字架の逆説
権力者が自分の地位や平穏(自己保身)を守るために、無実だと分かっている者をスケープゴートにしてあっさりと切り捨てる。これこそが、人間の社会に渦巻く罪と不条理の極みです。この手のニュースは、日本社会でも枚挙にいとまがありません。イエスは、このような人間の「不当な裁き」の犠牲となって苦しみを受けられたのです。
このピラトの不当な法廷は、まさに「二つの王国の激突」の場でもありました。武力や暴力、そして自己保身という力で世界を支配しようとする「ローマ帝国」の代表がピラトです。一方、イエス様は「真理と自己犠牲の愛」によって世界を治める「神の国」の王として、ピラトの前に立たれました。福音書にはこのように記されています。
イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。 37そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」
ヨハネによる福音書18章36-37節(口語訳聖書)
一見すると、不当な権力(ピラト)が勝利し、真理(イエス)が敗北したように見えます。しかし、オークスは新約聖書学者ディーター・ゲオルギを引きつつ、十字架の持つ意味を次のように指摘しています。
The effect of this is that it “puts an end to the hegemonic claims of all alienating and murderous power and violence.”
Peter Oakes, “Paul and Empire,” in The State of Pauline Studies: A Survey of Recent Research, ed. Nijay K. Gupta, Scot McKnight, and Erin M. Heim (Grand Rapids, MI: Baker Academic: A Division of Baker Publishing Group, 2024), 106.
【拙訳】[イエスの十字架は]疎外と殺戮をもたらすあらゆる権力と暴力の、覇権的な主張に終止符を打つのである)
神はピラトの不当な選択と、帝国の処刑道具である十字架を逆手にとり、悪と死の力を内側から打ち破られたのです。使徒信条にピラトの名が記されていることは、いかなる地上の不当な権力も最終的には神の主権のもとにあり、神の救いのご計画を妨げることはできないという力強い希望を示しています。
「二重の声」に引き裂かれる現代のピラトたち
近年の新約聖書学におけるポストコロニアル的(脱植民地主義的)な視点は、このピラトや当時の人々の葛藤を、現代の「不均衡な権力関係」の中へと鮮やかに引き寄せます。
聖書学者ソン・U・リム(Sung U. Lim)のローマ書13章の分析について、ジェニファー・ストローブリッジは次のように解説しています。
Sung Lim calls this approach a “double-voiced reading,” where the “voice of assimilation” appears to uphold colonial authority while the “voice of resistance” encourages the oppressed to act in ways that lead to the end of oppression
Jennifer Strawbridge, “Romans,” in The State of Pauline Studies: A Survey of Recent Research, ed. Nijay K. Gupta, Scot McKnight, and Erin M. Heim (Grand Rapids, MI: Baker Academic: A Division of Baker Publishing Group, 2024), 156.
【拙訳】ソン・リムはこのアプローチを『二重の声の読解〔double-voiced reading〕』と呼んでいる。そこでは、『同化の声〔voice of assimilation〕』が植民地権力を支持しているように見える一方で、『抵抗の声〔voice of resistance〕』が抑圧を終わらせる行動をとるよう抑圧された人々を促しているのである。
ピラトはまさに、この二重性に引き裂かれていました。内実(良心の抵抗の声)ではイエスの無罪を認めながら、表向きには「我々には皇帝のほかに王はない」という帝国の論理(同化の声)に迎合したのです。
この構造は、現代の私たちの環境にもそのまま当てはまるものだと言えます。かつてのユダヤ共同体における破門の恐怖や、ローマ皇帝への反逆罪の恐怖は、現代では組織内の同調圧力や、公の場で発言することへの萎縮へと形を変えました。真実が何であるかよりも、どの発言が周囲に受け入れられ、どの行動が組織的に適切かが優先される。私たちは自らの「抵抗の声」を、組織が承認したテンプレートという名の「同化の声」で塗りつぶしているということがあるように思います。
ピラトが群衆の前で手を洗った行為は、組織の不条理に加担しながらも「自分は中立である」という幻想を守ろうとする現代人の欺瞞そのものです。システムを維持するために誰かが「十字架」にかけられるのを見過ごしながら、自分だけは「清潔な手」を保とうとしている。そのようなことが現実にも、形を変えて存在しているように思います。
十字架の形をした愛(Cruciformity)
それでは、なぜイエスは、このような不当で理不尽なピラトの法廷で「苦しみを受け」なければならなかったのでしょうか。
神学者マイケル・ゴーマン(Michael J. Gorman)は、パウロ神学の核心を「Cruciformity(十字架の形をした生き方・愛)」と呼びました。ゴーマンによれば、それは平和と歓待に特徴づけられた、隣人と敵の両方に対する愛であり、ピリピ2章の『キリスト賛歌』こそがその最大の土台となっています。そこには、ピラトが示した「自分を守るために他者を犠牲にする力」とは全く逆の、「他者のために自分の特権を捨て、自らを低くして与え尽くす愛」が示されているのです。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。
ピリピ人への手紙2:6-11(口語訳聖書)
神は、安全な天の御座から人間を救い出したわけではありません。自己保身や権力ゲーム、そして不当な裁きといった「人間の最も暗い不条理」が渦巻くピラトの法廷のただ中に、自ら飛び込んで来られました。そして、ピラトや民衆から向けられた理不尽な暴力と不当な苦しみを前にして、神としての特権を振りかざしてやり返すことはなさいませんでした。まさにこのように記されている通りです。
ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。
第一ペテロ2:23(口語訳聖書)
帝国のルールの「完全な逆転」
それでは、なぜやり返さずに甘んじて不当な裁きを受け入れることが、悪を打ち破ることになるのでしょうか。
近年の新約聖書学においてパウロの王権イデオロギーを研究するジョシュア・W・ジップ(Joshua W. Jipp)は、ピリピ2章のキリストの姿が、当時のローマ皇帝などの権力者たちのパターンを「完全に逆転」させるものであったと指摘し、次のように語ります。
As I have summarized elsewhere, “True divine rule and power is revealed, then, in the Messiah’s refusing to exploit equality with God, and instead, in a total reversal of the pattern of those usurping kings who seek to ascend to the heavens, obeying YHWH and refusing to make use of divine honors and prerogatives.”
Joshua W. Jipp, “Paul and the Messiah,” in The State of Pauline Studies: A Survey of Recent Research, ed. Nijay K. Gupta, Scot McKnight, and Erin M. Heim (Grand Rapids, MI: Baker Academic: A Division of Baker Publishing Group, 2024), 20.
【拙訳】真の神の支配と力は、メシアが神との同等性を利用することを拒み、天に昇ろうとする簒奪王たちのパターンを完全に逆転させて、主に従い、神としての誉れや特権を行使することを拒んだことの中にこそ啓示されているのである。
もしイエスが、神としての絶大な力を使って暴力を暴力でねじ伏せていたなら、それは結局のところ、ピラトやカエサルと同じ「力による支配」というローマ帝国や悪のルールに屈したことになり、真の勝利にはなりませんでした。悪(サタン)は、偽りや憎しみ、死という武器を使って世界を支配しようとします。しかしイエスは、その悪の武器に対して、神の武器である真理と愛、命で戦われたのです。
イエスは、ご自身に向けられた不条理な暴力や憎しみを、逃げることなく真っ向から引き受け、それでもなお愛と赦しを貫かれました。そうすることで、悪が引き起こす「憎しみと復讐の連鎖」をご自身の身で完全に止めてくださったのです。力で相手を屈服させるのではなく、他者のために自分を与える「十字架の形をした愛」こそが、人の心を根本から変革し、悪の支配を内側から崩壊させる「真の力」だったのです。
ぼくどくメモ
ピラトの法廷の物語を読むとき、私たちは無意識のうちにピラトを「自分とは違う、冷酷な権力者」として遠ざけてしまいがちです。しかしソン・U・リムが指摘する「二重の声」に引き裂かれる人間の姿は、まさに私たち自身のものではないでしょうか。
組織の中で「これはおかしい」と感じながらも、その違和感を口にすれば自分の立場が危うくなる。そうして私たちは、内なる「抵抗の声」を、組織が求める「同化の声」で覆い隠していく。やがては、ピラトのように手を洗い、「自分は責任を負わない」と自らに言い聞かせるようになるのかもしれません。
しかし、福音はそのような私たちに対して、もう一つの道を示しています。それは、自己を守るために他者を切り捨てる道ではなく、他者のために自分を差し出す「十字架の形をした愛」の道です。私たちが「板挟み」の中で何を選ぶのか。その小さな選択の積み重ねの中にこそ、キリストの主権を信じる信仰が問われているのかもしれません。
