私たちが困難に直面している誰かに声をかけるとき、「慰め」るべきか、それとも「励まし」たらよいのか、迷うことはないでしょうか。

傷ついて涙を流している人に「頑張れ」という励ましは残酷に響くことがあります。一方で、いつまでも慰めの言葉だけをかけ続けていては、その人が再び立ち上がって前を向くための力にはならないかもしれません。私たちはしばしば、この「慰め」と「励まし」のジレンマの中で葛藤することがあるように思います。

しかし、聖書をその原語であるギリシア語に着目して読むと、驚くべき事実が見えてきます。実は、聖書において「慰め」と「励まし」は、全く同じ一つの言葉で表現されているのです。

一つの言葉に込められた二つの意味

新約聖書の中で「慰め」や「励まし」、時には「勧め」と訳されている言葉の多くは、ギリシア語の動詞「παρακαλέω(パラカレオー)」およびその名詞形「παράκλησις(パラクレーシス)」が使われています。この言葉は「傍ら(パラ)に呼ぶ(カレオー)」という二つの語が組み合わさってできています。

日本語の聖書(口語訳など)を読み比べると、翻訳者たちが文脈に応じてこの言葉を見事に訳し分けていることがわかります。それは読者への親切であり、優れた翻訳技法です。しかし同時に、訳し分けることで生じる副作用もあります。というのは、「慰め」と「励まし」が、まるで全く別々の行動であるかのような印象を与えてしまうからです。実際には、これは一つの同じ単語です。

慰めとしてのパラクレーシス

この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。

ルカによる福音書2章25節(口語訳聖書)

神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。

コリント人への第二の手紙1章4節(口語訳聖書)

励ましとしてのパラクレーシス

これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。

ローマ人への手紙15章4節(口語訳聖書)

人々はそれを読んで、その勧め(励まし)の言葉をよろこんだ。

使徒行伝15章31節(口語訳聖書)
※新改訳2017では「励まし」と訳されている。

テサロニケ人への手紙:一つの手紙の中での訳し分け

特に印象的なのは、テサロニケ人への手紙第一です。パウロは同じパラカレオーという言葉を、先に眠った仲間への悲しみを抱えた人々に向けて(4:18)と、信仰の歩みがゆるみかけた人々に向けて(5:11)、続けて用いています。実は日本語の聖書では、どちらの箇所も同じ訳語で揃えられています。たとえば口語訳はどちらも「慰め合いなさい」、新改訳2017はどちらも「励まし合いなさい」です。英語訳でも同様に、訳語そのものは統一されることが多いのです。

しかし文脈をよく読むと、この二つの「パラカレオー」は明らかに違う方向を向いています。前者は愛する者を失って悲しむ人々への寄り添いであり、後者は気のゆるんだ人々への鼓舞です。訳語が同じでも、その背後にある意味は異なります。一つの言葉が、文脈に応じてこれほど豊かに意味の幅を持っているのです。

新約聖書学者のマイケル・ゴーマンはその著書『Cruciformity』の中でこの点についてこう述べています。

Although Paul uses the same Greek verb—parakaleō, meaning “exhort” or “appeal”—at the conclusion of each set of instructions (4:18; 5:11), it is clear from the context that the verb connotes “comfort” in the first instance and “prod” in the second.

パウロは4章18節と5章11節の各教えの締めくくりに同じギリシア語動詞パラカレオーを用いているが、文脈から明らかなように、前者では『慰め』を、後者では『背中を押すこと(prod)』を意味している。

Michael J. Gorman, Cruciformity: Paul’s Narrative Spirituality of the Cross, 20th Anniversary Edition (Grand Rapids, MI: William B. Eerdmans Publishing Company, 2021), 217.

「背中を押す(prod)」という言葉の選択に、ゴーマンのセンスが光っています。「慰め」や「励まし」といった揃えられた訳語では見えにくいニュアンス、つまり「停滞から前進へと動かす力」が、文脈の中にちゃんと込められているのです。ゴーマン自身、4:18と5:11が同じ動詞であることを認めた上で、訳語の違いではなく文脈が示す意味の幅に目を向けています。

日本語では「マイナスからゼロへ引き上げる(癒やす)」のが慰めであり、「ゼロからプラスへ背中を押す(前進させる)」のが励ましというように、全く異なるベクトルの言葉として捉えられがちです。しかし、初代教会のクリスチャンたちにとって、これらは異なる二つの行動ではなく、一つの同じ体験の表裏一体の事柄だったのです。

語源から学ぶ「神のケア」の本質

「パラクレーシス」という言葉の本来の意味は、「自分の傍らに呼ぶこと」「傍らにいて声をかけること」です。

神が私たちの「傍らにぴったりと寄り添ってくださる」こと。それこそが、この言葉の核心です。

神が私たちの傍らにいてくださるとき、その臨在は、私たちの状況に合わせて最適な形で働きます。

傷ついたまま走らせない(慰めの力)

私たちが悲しみのどん底にあり、一歩も動けないとき、傍らにいる神は無理やり私たちの腕を引いて走らせるようなことはなさいません。ただ共に座り、涙を拭い、傷ついた心を温かく包み込んでくださいます。そのような「寄り添い」は、私たちにとって深い「慰め」となります。

寄り添ったまま停滞させない(励ましの力)

しかし、神の寄り添いは、ただ一緒にうずくまって終わるものではありません。傷が癒え、少し気力が戻ってきたとき、傍らにいる神は「さあ、一緒に歩き出そう」と力強く背中を押してくださいます。進むべき道を示し、足を一歩踏み出す勇気を与えてくださるのです。それが「励まし」です。

慰めは循環する

さらに第二コリント1章を読むと、神から受けた慰めは私たちの内にとどまるものではないことがわかります。

神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。

コリント人への第二の手紙1章4節(口語訳聖書)

慰めは、神から私たちへ、そして私たちから隣人へと流れ出ていくのです。

結論:私たちの内にいる「助け主」

イエス・キリストが天に昇られる前、弟子たちに「もう一人の助け主」を送ると約束されました。その「助け主(あるいは慰め主)」と呼ばれる聖霊のギリシア語は「παράκλητος(パラクレートス)」で、これも全く同じ語源から来ています。

神は、遠く離れた天から「泣かないで」と慰めたり、「頑張れ」と励ましたりする方ではありません。キリストの十字架と復活を通して、聖霊なる神が今、私たち一人ひとりの「一番近く(傍ら)」に住んでくださっています。

あなたの傍らにいる方は、あなたの痛みを誰よりも知っています。ある時は優しく慰め、またある時は力強く背中を押し、あなたの歩みを完成へと導いてくださるのです。

私たちが「慰めるべきか、励ますべきか」と思い悩むときも、まずは相手の傍らに寄り添うことから始めることが大切ではないでしょうか。そして、そこから、神ご自身が真のパラクレーシス(慰めと励まし)を与えてくださるはずです。

ぼくどくメモ

先日、『山上の説教』の「悲しむ者は幸いである、彼らは慰められるであろう」というよく知られた箇所を、ある集まりで分かち合う時間がありました。そこで話し合ったのは、誰かを慰めたり、慰められたりした経験についてです。

ところが、よく考えてみると、励まされることはあっても、慰められることは、あまりなかったかもしれないと思いました。慰めるという行為は、想像以上に重いものなのかもしれません。

しかし聖書は、「慰め」がクリスチャンにとっていかに大切な要素であるかを語っています。同時に、私たちに対する神の慰めが、いかに素晴らしいものであるかも語っています。

そして、この言葉に単なる慰めだけでなく励ましの意味も込められていることを知ると、私自身もこれまで、気づかないうちに慰められてきたのではないかと思うようになりました。

参考文献:Michael J. Gorman, Cruciformity: Paul’s Narrative Spirituality of the Cross, 20th Anniversary Edition (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2021).

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