使徒の働きには、現代の社会とは大きく異なる共同体の姿が描かれています。

信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた。

使徒行伝4章32-35節(口語訳聖書)

自分の持ち物を「自分のもの」と主張せず、必要に応じて互いに分け合う。そして、一人も乏しい者がいない。個人が自分の資産をできるだけ多く確保しようとする現代の資本主義社会とは、対照的な姿です。

この箇所を読んだ多くの人が、ある疑問を抱きます。

「これは、共産主義と同じではないのか」。

財産を共有し、必要に応じて分配する。言葉だけを並べれば、確かに両者はよく似ています。本記事では、この問いを検討します。初代教会の姿と共産主義は、どこが重なり、どこで異なるのでしょうか。

外見上の共通点

はじめに、両者の間に重なる部分があることを確認しておきます。初代教会の実践と共産主義は、外見上は、いくつかの共通点を持っています。

財産を個人で独占せず、共同体で分かち合う。持てる者が持たざる者を支え、必要に応じて配分する。こうした「形」だけで判断すれば、両者はよく似た理想を語っているように見えます。実際、歴史の中では、この使徒の働きの記述が財産共有の理想を支える聖書的な根拠として引用されてきた経緯もあります。ですから、「似ている」という直感そのものは、決して的外れではありません。

問題は、その先です。表面的に似ているとき、私たちはつい、中身も同じだろうと考えやすいです。しかし、同じように見える行為が、まったく異なる原理から生まれていることがあります。初代教会と共産主義の関係は、まさにそれにあたります。

違いは「私有財産の有無」ではない

それでは、両者を分けるものは何でしょうか。ここで注意したいのは、その違いを「私有財産を認めるかどうか」に求めると、議論がかえって曖昧になるということです。

共産主義は、個人の財産をすべて取り上げて共有にする思想だと理解されることがあります。しかし、マルクスやエンゲルスが問題にしたのは、他人の労働を支配する手段としての財産、いわば資本でした。個人が自分の働きで得た生活の糧そのものを奪うことを目指していたわけではありません。ですから「共産主義は個人の財産をすべて取り上げる」という理解は、正確とは言えません。

一方、初代教会も、私有財産を廃止してはいませんでした。このことは、聖書の記述そのものからはっきり読み取れます。初代教会が持ち物を共有していた様子を記す記事の直後に出てくる、アナニアという人物へのペテロの言葉を見てみましょう。

そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。

使徒行伝5章3-4節(口語訳聖書)

この言葉からわかることは、土地を売るか売らないかも、売った代金をどうするかも、本人の自由だった、ということです。強制された制度ではなかったのです。つまり、初代教会において、私有財産は否定されていません。

こうして見ると、「私有財産を認めるか否か」という線引きは、両者を分ける決め手にはなりません。本当の違いは、別のところにあります。

決定的な違いは、動機が「内」から来るか「外」から来るか

初代教会の分かち合いを動かしていたのは、外からの命令ではありませんでした。「心と思いを一つにして」(使徒2:44, 46; 4:32)という言葉が示すように、それは一人ひとりの内側から自然にあふれ出た応答でした。誰かに強いられたからではなく、自分の意志によって、初代教会の人々は、あらゆるものを共有していたのです。

これに対して、二十世紀に現実の体制となった共産主義は、財産の共有を国家の制度として、上から実現しようとしました。ロシア革命以降に築かれた体制は、生産手段を国家の管理下に置き、強制力によってそれを運営しました。そしてその過程で、権力の集中や官僚化、自由の抑圧といった深刻な問題が生じたことは、歴史がよく知るとおりです。

この違いは、決して小さなものではありません。外からの強制で成り立つ仕組みは、従わない者を罰することでしか維持できません。それは結局、力によって人を動かす原理の上に立っています。一方、初代教会の分かち合いは、罰への恐れからではなく、内側の変化から生まれていました。表面の形は似ていても、それを動かしている原理は正反対だったのです。

「ズルをする人」が現れたとき

ここで、内側からの動機に基づく共同体には、一つの問いが向けられます。それはすなわち、制度による強制がないなら、ズルをする人が現れたとき、どうなるのか、ということです。

初代教会でも、実際にそれが起こりました。先ほど名前を挙げたアナニアと、その妻サッピラです。二人は、自分たちの地所を売った代金の一部を手元に残しておきながら、あたかも全額を献げたかのように装いました。

ここで注目したいのは、彼らの何が問われたのか、ということです。ペテロは、彼らが「全額を差し出さなかったこと」を責めてはいません。先に見たとおり、いくら献げるかは本人の自由だったからです。問われたのは、一部を残したことではなく、すべてを献げたかのように偽ったこと、つまり人を、そして神を欺こうとしたことでした。

この一点に、両者の違いが最も鮮明に現れています。制度として財産共有を強制する体制であれば、ズルは「制度への違反」として、規則によって裁かれます。しかし初代教会において、ズルは制度違反としてではなく、「神の前での偽り」として問われました。外側の規則の問題ではなく、内側の誠実さの問題だったのです。

分かち合いは「目標」ではなく「結果」だった

もう一つの違いは、分かち合いが共同体にとってどのような位置を占めていたか、という点にあります。

共産主義は、財産を共有するという経済的な仕組みそのものを目標に掲げます。正しい仕組みを作れば、正しい社会が実現するという発想です。そこでは、分かち合いはゴールとして設定されています。

ところが使徒の働き4章では、順序が逆になっています。分かち合いを描いた記述(32節と34〜35節)の、ちょうど真ん中に、こう記されています。

使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。

使徒行伝4章33節(口語訳聖書)

持ち物についての記述の間に、復活の証言が置かれています。これは偶然ではないでしょう。この共同体の中心にあったのは、財産の共有という制度ではなく、復活したイエスへの信仰でした。分かち合いは、その信仰から自然に流れ出た結果にすぎなかったのです。

だからこそ、『使徒の働き(使徒行伝)』は、この共同体の姿を「すべての社会が従うべき経済制度」として提示してはいません。「こうしなさい」という命令の形では、一度も語られていないのです。ここに描かれているのは、達成すべき目標ではなく、内側の変化がもたらした実りでした。

二つの原理

こうして見ていくと、初代教会の分かち合いと共産主義の違いは、経済モデルの優劣の問題ではないことが分かります。どちらの仕組みがより効率的か、より公平か、という次元の話ではありません。その違いは、人を動かす原理そのものにあります。一方は、外から与えられた制度と、それを支える強制の力。もう一方は、内側から変えられた心と、そこからあふれ出る自発的な応答です。

初代教会の人々が「自分のもの」(使徒4:32)と言わなくなったのは、そう命じられたからでも、制度の中に置かれたからでもありませんでした。復活したイエスに出会い、失うことへの恐れから解放されたことによって、彼ら彼女らは握りしめていた手を自分から開きました。表面的にはどれほど似ていても、外から強いられた分かち合いと、内側から生まれた分かち合いは、性質を異にします。

完全な仕組みは存在しない

ここまで初代教会の姿を共産主義との対比で概観してきましたが、最後に、視点を少し広げておきたいと思います。

ここで確認しておきたいのは、共産主義という特定の制度が良いか悪いか、という話ではないということです。どのような社会の仕組みも、それだけでは完全たりえません。これは資本主義についても同じです。私有を認め、個人の自由な経済活動を土台とする資本主義もまた、人の心が伴わなければ、富の偏りや、他者への無関心を生み出します。共産主義も資本主義も、仕組みである以上、それを動かす人間の動機を抜きにしては機能しません。

このことを、使徒の働きの物語自身が示しています。先ほど触れたアナニアと、その妻サッピラの出来事において、二人は、初代教会の分かち合いの共同体にいました。理想的といえる交わりのただ中にいながら、その心には偽りがありました。どれほど恵まれた環境に置かれても、心が伴わなければ、それは内側から壊れていきます。外側の環境そのものが人を良くするわけではないのです。

だとすれば、私たちが問うべきことは、どの制度を選ぶかということ以上に、何によって自分の心が動かされているか、ということになります。初代教会の人々を動かしていたのは、制度ではなく、復活したイエスとの出会いでした。彼らが財産を共有するという分かち合いの精神を持つようになったのは、そう命じられたからではなく、内側が変えられたからでした。

完全な仕組みは、どこにも存在しません。しかし、不完全な仕組みの中にあっても、内側から変えられた心は、そこに分かち合いを生み出します。使徒の働きが描いているのは、そのような人々の姿です。