詩篇32篇「罪をおおわれる幸い」

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 聖書の中で「赦し」は重要なテーマの一つですが、「赦し」の本質は「関係の回復」をもたらすことにあります。このことを考えた時に、聖書が語る赦しとはどのようなものかがわかってきます。
 時に「赦し」は関係を回復するものではなく、むしろ断絶するものとなることがあります。司法制度を例に考えてみましょう。日本の司法では、加害者に対して何かしらの刑罰(罰金)が科されることで、表面的にはその問題が解決されたことになります。しかしながら、加害者が罰を受けたところで、依然として被害者の傷は癒えないという問題が残ります。仮に、加害者が謝罪の気持ちを一切持つことなく、刑期を満了したとしても、加害者と被害者の関係が回復されることはありません。時に、被害者は加害者が罰を受けること以上に、罪を認め、謝罪してほしいという気持ちを抱くこともあります。このような問題に対して近年注目されているのが「修復的司法」という取り組みです。詳細には触れませんが、要するに、加害者が被害者に対して行なった悪を認め、壊れた関係を修復するというものです。(詳しく学びたい方はこちらをご参照ください。【特集】「修復的正義を知るには▼この三冊!

 このような取り組みは聖書的理念の元から生まれたものですが、まさに聖書が語る「赦し」というのは、単に罰を与えてそれで終わり、というものではありません。関係が回復されることが決定的に重要です。そのために必要不可欠なものが、罪を認めるというプロセスです。詩人はこのことを「不義を隠さない」と表現します。5節で「隠す」と訳されているヘブル語「ハーサー」は、1節では「おおう」と訳されています(英語ではcover)。つまり、詩人は自分で自分の罪をカバーするのではなく、主がカバーすることを選択しました。結局のところ、どちらも罪がカバーされるわけですが、自分でカバーするのか、それとも主がカバーするのか、ここに決定的な違いがあります。

 赦しが関係の回復をもたらすために必要なことは、詩人のように罪を認めるということであり、自分で罪をカバーしないということです。反対に、主によってカバーされることを受け入れることが重要です。その際、罪はあくまで「おおわれる」わけであって、罪が帳消しにされるわけではありません。しかしながら、罪が忘却されたわけではないけれども、罪がおおわれた者はさいわいだと、詩人は言います。なぜなら、罪がおおわれた人は、その罪を認めているわけであり、壊れた関係を修復したいと望んでいるからです。もしも、赦しによって罪が帳消しになると考えているならば、壊れた関係を認識していないことになります。

 感謝なことに、詩人が告白するように、主の前に罪を認める者を主は赦してくださいます。そのことによって、私たちは罪がない者とされるのではなく、罪赦された者となります。つまり、罪がおおわれた者となります。罪がおおわれていることを知っている者は、罪が赦されたことの大きな喜びを忘れることはありません。それは転じて、赦された者として人を赦す生き方を願うことに繋がっていきます。そのような赦され、赦すことに努める生き方は、まさに神との回復された関係の中を生きる者とされていると言えるでしょう。

 罪の赦しというのは、罪がなかったことにされるわけではなく、罪がおおわれることです。このことはイエス様の十字架の傷跡からも教えられるのではないかと思います。罪を赦すために十字架で受けられたその傷は、復活された後、綺麗さっぱりなくなったわけではありませんでした。しかしその傷は、もはや私たちを責めるものではなく、私たちが神の愛を深く心に刻むためのものとされたのです。罪がなかったことにはならないけれども、確かに赦されたことを、その傷跡に見ることができるのではないでしょうか。このように主に罪をおおわれていることを覚えて、そして私たち自身も赦す者として歩むことができたら幸いです。

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