終末論は「未来の話」ではない

「終末論」という言葉を聞くと、多くの人は未来の出来事——再臨、最後の審判、新しい創造——を思い浮かべます。確かにパウロはそれらを語ります。しかし、パウロの終末論を注意深く読むと、気づくことがあります。

それはすなわち、終末論の核心は、未来への憶測ではなく、すでに起きた三つの出来事の「意味」を問うことにあるということです。 その三つとは、キリストの死、復活、昇天です。

パウロにとってこれらは単なる過去の歴史的事実ではありませんでした。これらはそれぞれが、歴史の方向を決定的に変えた終末論的な出来事でした。どのように変えたのかを見ていきましょう。

キリストの死——逃れられない連鎖が断ち切られた 

パウロはこのように指摘しています。

死のとげは罪である。罪の力は律法である。

コリント人への第一の手紙15章56節(口語訳聖書)

一見シンプルなこの一文には、深い論理が隠れています。「死のとげ(武器)」は「罪」であり、その罪に力を与えているのが「律法」です。

つまり、ここには「逃れられない絶望の連鎖」があります。神の正しい基準である「律法」は、本来素晴らしいものですが、「罪」がそれを悪用して人間を断罪します。「掟を破ったお前には、神の前に立つ資格がない」と。そして断罪された罪人を、今度は「死」が容赦なく刺すのです。「律法が罪人を断罪し、罪がその断罪を武器として人を縛り、死が人を飲み込む」——この連鎖が機能する限り、人間は自力で助かることはできません。

しかし、キリストの死は、この連鎖を根本から断ち切りました。

キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。

ガラテヤ人への手紙3章13節(口語訳聖書)

律法の要求をキリストが十字架で満たしたことで、罪はその力を失います。罪が力を失えば、死もその「とげ」を失います。

これは道徳的な改善の話ではありません。終末論的な意味での「支配の交代」です。キリストの死によって、罪と死の支配が根底から崩されました。

復活——終わりの日が歴史の真っ只中に来た 

次に復活です。ここがパウロの終末論の最も革命的な核心だと言えます。

ユダヤの終末論では、「死者の復活」は終わりの日に起こるはずでした。最後の審判の日に、義人が復活して神の前に立つ——それが当時の一般的な終末論的期待でした。 しかし、キリストはすでに復活しました。歴史の真っ只中に。

これはパウロにとって、単なる奇跡の報告ではありません。終わりの日に起こるはずだった出来事が、前倒しで来たということです。来たるべき時代が、この時代の中に割り込んできたのです。

さらにパウロはローマ書でこう述べています。

主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。

ローマ人への手紙4章25節(口語訳聖書)

「義とされるために」——。ユダヤの終末論では、義認(δικαίωσις、ディカイオーシス)とは最後の審判における無罪宣告のことでした。パウロはキリストの復活を、まさにそのような終末論的な無罪宣告として理解しています。キリストは復活によって、神の前に義であることが宣言されました。そしてキリストに結ばれた信仰者は、そのキリストの義に参与する(あずかる)のです。

ただここで、少し補足するとすれば、 近年のパウロ研究では、義認を「二段階」で理解する見方が主流になっているということが挙げられるかもしれません。 一段階目は「現在の義認」——信仰によって今すでに義と宣言されることです。これはキリストの復活に基づいており、信仰者はキリストに結ばれていることで、すでに神の前に義とされています。

しかし、義認には「もう一段階」あります。それは「将来の義認」、すなわち、最後の審判において、聖霊に導かれて生きた生涯全体に基づいて、義が確認されることです。パウロはローマ2章6節で「神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる」と書いており、将来の審判が無関係ではないことを示しています。

そして、この二段階は矛盾しません。現在の義認は将来の義認の「先取り」であり、将来の義認は現在の義認の「確認」です。また、これは決して「最後は自分の行いで救いを得る」という意味ではありません。ガラテヤ5章6節の「愛によって働く信仰」という言葉が示すように、本物の信仰は必ず聖霊によって形作られた生涯として実を結び、それが将来の審判において証拠として証明されるということです。

したがって、このように言えます。

キリストの復活によって、終わりの日に下されるはずだった無罪宣告がすでに先取りされ、信仰者は今その宣言の中に置かれています。しかしそれは、将来の審判を無意味にするものではありません。聖霊による歩み全体を通して、その義認は将来確認されます。「すでに」義とされているからこそ、「いまだ」続く歩みが意味を持つのです。

昇天——即位と不在のあいだで 

三つ目の出来事、昇天について。

神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。

エペソ人への手紙1章20-21節(口語訳聖書9

昇天はキリストの「即位」の出来事です。すべての支配と権威の上に立つ王として、キリストは即位しました。来たるべき時代において完全に実現するキリストの支配が、昇天によって「すでに」宣言されたのです。

しかし、昇天はもう一つの側面を持っています。それは「不在の始まり」です。 キリストが天に昇られたことで、地上からは目に見えない存在になりました。この不在の時代に、信仰者をキリストにつなぎとめているのが聖霊です。エペソ書1章14節が「聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証」(ἀρραβών、アラボーン)と呼ぶのは、この文脈においてです。キリストが不在の今、聖霊が来たるべき時代の「先払い」として働いています。

そして昇天は再臨への期待を生み出します。キリストが天に昇られたなら、やがて戻って来られるはずです。「不在」は「永遠の不在」ではなく、「再臨までの不在」です。昇天と再臨はコインの表裏なのです。

三つの出来事は一つの終末論的DNA 

最後に重要な点を確認したいと思います。それは、これら三つの出来事は、バラバラに理解するべきではないということです。

キリストの死は罪と死の支配を内側から崩しました。キリストの復活は終わりの日の出来事を歴史の真っ只中に引き寄せ、義認の根拠を与えました。キリストの昇天はすべての権威の上に立つ王としての即位を宣言し、聖霊の働きと再臨への期待を生み出しました。 三つは有機的に結びついており、一つの終末論的な物語を形成しています。

新約学者のC・キャンベルはこの三つの関係をこう表現しています。

The death, resurrection, and ascension of Christ are inherently eschatological events in Paul’s mind. Each one makes a distinct contribution to the eschatological landscape, and together they constitute the formidable power of Christ to conquer the powers of sin and death, to overturn their dominion over humanity, and to triumph over all other authorities that stood opposed to him. The benefits of Christ’s eschatological death, resurrection, and ascension are appropriated by believers’ participation in each. Believers have died with Christ, been raised with Christ, and have been seated with him in the heavens. By their participation in Christ, believers have been set free from the tyranny of sin and death and have begun a new life with Christ in the realm of Christ.
[拙訳]パウロの思考において、キリストの死・復活・昇天は本質的に終末論的な出来事です。それぞれが終末論的な地平に独自の貢献をなし、合わさって、罪と死の力を征服し、人類に対するそれらの支配を覆し、キリストに敵対したすべての権威に勝利するという、キリストの強大な力を構成しています。 キリストの終末論的な死・復活・昇天の恵みは、信仰者がそれぞれに参与することによって受け取られます。信仰者はキリストと共に死に、キリストと共によみがえり、キリストと共に天の座に着いています。キリストへの参与によって、信仰者は罪と死の専制から解放され、キリストの領域においてキリストと共に新しい命を生き始めているのです。

Constantine R. Campbell, Paul and the Hope of Glory: An Exegetical and Theological Study (Grand Rapids, MI: Zondervan Academic, 2020), 456.

この引用が示しているのは、三つの出来事が「過去の歴史」であると同時に、信仰者が今まさに「参与している現実」でもあるということです。キリストと共に死に、キリストと共によみがえり、キリストと共に天に座している——これは将来の話ではありません。信仰者の「今」の現実です。

そしてキャンベルはこの三つの関係を、一つの文で鮮やかに言い表しています。

The design of the eschaton is nothing less than the unfurling of the embryonic promise contained within the death, resurrection, and ascension of Christ.
[拙訳]終末の設計とは、キリストの死・復活・昇天の中に胚芽の形で宿っていた約束が、ついに展開されることに他なりません。

Campbell, ibid., p. 457.

終末はどこか遠くから突然やってくるものではありません。すでにキリストの死・復活・昇天の中に「種」として宿っていたものが、やがて完全に花開く——それがパウロの描く終末論の姿です。終末論は未来の憶測ではなく、過去の出来事に根ざした、確かな希望の神学なのです。

ぼくどくメモ 

終末論は未来の出来事についての憶測ではなく、すでに起きた出来事の意味を問う神学だということは、終末論理解が誤用されている現代にあっては、いくら強調してもしすぎではないように思います(言い過ぎかもしれませんが)。キリストはすでに死なれました。すでに復活されました。すでに昇天されました。だからこそ、終わりの日に向けて必要なことは、すでにキリストにおいて始まっていると言えるのです。

信仰者は、その「すでに」と「いまだ」の時間の間を歩いています。 再臨を待ちながら、すでに義とされた者として。 復活を待ちながら、すでに霊的に新しくされた者として。 栄光を待ちながら、すでに栄光の望みであるキリストを内に持つ者として。

過去の出来事が、未来への確かな根拠になっています。それがパウロの終末論の骨格です。