1わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。

なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。

2わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。

3しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです。

4われらの先祖たちはあなたに信頼しました。彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました。

5彼らはあなたに呼ばわって救われ、あなたに信頼して恥をうけなかったのです。

詩篇22篇1-5節(口語訳聖書)

詩篇22篇は、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのか」という深刻な訴えで始まります。これは敵に囲まれた苦境、あるいは孤立感の中での叫びと考えられます。この詩篇は時代を超えて多くの信仰者たちによって、苦難の時に祈られ続けています。詩人はここで沈黙される神に対し、非難ではなく、必死に問いかけています。聖書が示す信仰において、神を信じることと神に問いかけることは決して相反しません。

しかし冒頭の訴えから一転し、第3節以下で詩人は自分の感情を超え、神の性質と過去の恵みを想起します。イスラエルの賛美の上に座しておられる神は聖なる方であるという告白です。ここで「聖なる」を意味するヘブル語קָדוֹשׁ(カドーシュ)は、神の超越性とともに、神の汚れなき性質と約束への忠実さを表しています。第3節から5節にかけては、先祖たちが信頼し、救われた歴史が思い起こされます。つまり詩人は、見捨てられたという深い孤立のただ中にありながらも、それでもなお神は聖なる方であり、歴史の中で常に真実を示されてきた方であると宣言しているのです。これは単なる感情の切り替えではなく、疑いや葛藤を抱えたまま、神の真実に自らを委ねるという極めて意識的な決定だと言えます。

私たちは時に、詩人のように「なぜ」と叫びたくなる経験をします。病のうちにある時、孤独に打ちひしがれている時、あるいは祈りに答えがないように思える時。そのような中で、詩人のように問いかけながらもなお、神の聖さと真実を思い起こすことができるでしょうか。重要なのは、その問いを神に向けることそのものが、実は神を信じている確かな証しだということです。神の沈黙に抗議する者は、その沈黙を破られるべき存在として神を信じているからです。

キリストご自身も十字架上でこの詩篇22篇1節を叫ばれました(マタイ27:46)。そして、その苦難の道のりを通じて、御父の救いの計画を完成されたのです。今日、私たちが時に抱く見捨てられたという思いは、イエスがすでに通られた道です。だからこそ、深い問いと嘆きの中にあってもなお、神の聖さに目を向けることは可能なのではないでしょうか。