パウロ書簡を読んでいると、ある表現が繰り返し使われていることに気がつくのではないでしょうか。

「キリストにあって(in Christ)」

この短い句は、パウロ書簡にギリシア語の「ἐν Χριστῷ(エン・クリストー)」というフレーズで何回も使われています。これは単なるパウロの口癖(書き癖)ではなく、ある独特の「現実」を指し示す神学的フレーズだと考えられています。

本記事では、二十世紀のパウロ研究で大きな議論の対象となってきたテーマ、「参与論(participation)」について、研究史をふまえながら入門的にご紹介します。

「キリストにあって」というパウロの語法

「キリストにあって」という表現の重みが最もよく現れているのは、洗礼について語るローマ人への手紙6章です。

それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。

ローマ人への手紙6章3-4節(口語訳聖書)

ここでパウロが用いるギリシア語の動詞には、「共に(συν-、スィン-)」という接頭辞がいくつも見られます。実は、この「共に(συν)」という言葉もまた、パウロ神学における参与論的なフレーズです。「共に葬られた」「共に十字架につけられた」「共に生きる」。信仰者はキリストの物語の外から眺めているだけの観客ではなく、内側からその出来事に「あずかっている」。それがパウロの確信です。

このように、パウロ神学における参与論的なフレーズはいくつかあるわけですが、コンスタンティン・キャンベルは、「ἐν(〜にあって)」という前置詞そのものが、ギリシア語のなかでも意味の幅がきわめて広い語だと指摘しています。場所(〜の中で)、手段(〜によって)、状態(〜の状況のうちに)、原因(〜のゆえに)など、文脈に応じてさまざまな意味合いを帯びるのです。「キリストにあって」という表現が、ひと言では言い尽くせない奥行きを持つのは、そのためでもあります。

二十世紀における「参与論」の発見

このパウロの表現を近代の聖書学の中心に押し出したのは、J.D.G.ダンによると、十九世紀末のドイツの新約学者アドルフ・ダイスマンでした(ダン『使徒パウロの神学』509頁参照)。ダイスマンは「キリストにあって(in Christ)」というパウロの語法を「キリスト神秘主義(Christ mysticism)」と名付け、信仰者とキリストとの親密な交わりを描き出そうとしました。空気が私たちの中にあって、同時に私たちが空気の中で生きているように、キリストもパウロのうちにあって、パウロもキリストのうちに生きている。そのような双方向の関係で説明したのです。

あだかも私共が呼吸してゐる生命の空氣のように、私共の「中」にあり、また私共を充たしてゐるのである。そして私共は同時に、この空氣の「中」に生きて、これを呼吸してゐる。パウロとキリストとの親交も、これと同じことである。(原文ママ)

アドルフ・ダイスマン、佐野勝也訳『イエスの宗教とパウロの信仰』(第一書房、昭和11年[1936年])、163頁

ダイスマン以後、この主題に決定的なものにしたのは、アルベルト・シュヴァイツァーでした。1930年の『使徒パウロの神秘主義』のなかで、シュヴァイツァーは、パウロの「キリストにあること」は終末論的にしか理解できない、と強く主張しました。来たるべき新しい時代の現実が、すでにキリストにある者のうちに先取りされている、というのです。

パウロの神秘主義の根本思想は、「わたしはキリストにある」ということである。すなわち—キリストにあってわたしは自分を、この感性的で罪深い移ろい易い世から解放されて、すでに変貌した世界に属するものとして体験する。キリストにあってわたしは復活を確信する。キリストにあってわたしは神の子であるー。

A. シュヴァイツァー、武藤一雄・岸田晩節訳『使徒パウロの神秘主義(上)』(シュバイツァー著作集 第十巻:白水社、1957年)、23頁

その後、ルドルフ・ブルトマンを代表とする一派は、パウロの参与的言語の背景を当時のヘレニズム的密儀宗教に求めようとしました。しかし、こうした「異教の神秘主義との並行」を強く打ち出す解釈は、その後の研究では大きく退けられていきます。むしろ、パウロの参与的思考の根は、ユダヤ的終末論や第二神殿期のユダヤ教思想にあるとみるのが、現代では多数派のようです。

そして、この主題のもうひとつの大きな転回点となったのが、1977年のE. P. サンダース『パウロとパレスチナ・ユダヤ教』でした。サンダースは、長く使われてきた「神秘主義(mysticism)」という曖昧な用語を退け、これを「参与(participation)」という言葉で置き換えます。さらに彼は、「信仰による義認」と「キリストとの参与」とは、結局のところ同じ救いの現実を別の角度から語ったものだと主張しました。義認を中心に据えてきた福音主義神学にとって、これは深く問い直しを迫る提起となります。サンダース以後、「参与」という言葉は新約学の共通語となり、現在に至るまで広く用いられるようになりました。

「キリストにあって」だけではない:参与の語彙の広がり

キャンベルが『Paul and Union with Christ』において成し遂げたもうひとつの大きな貢献は、「ἐν Χριστῷ」というひとつの表現に絞らず、パウロが参与的な現実を語るときに用いる複数のギリシア語の表現を、丹念に拾いあげ分析したことだと言えます。Campbellが注目している主な系統は三つあります。

第一は、すでに見た 「ἐν Χριστῷ(キリストにあって)」 です。キャンベルの分析によれば、この句の「ἐν」は文脈ごとに「〜の中に」「〜によって」「〜のうちにあって」など、さまざまな働きをします。特にパウロが「神がキリストにあって私たちに〜してくださった」と語る箇所では、「ἐν」は手段や仲介を表していると、キャンベルは指摘しています。

第二は、「σὺν Χριστῷ(キリストと共に)」 および 「共に〜する」を表す 「συν-(スィン-)複合動詞」 の群れです。先のローマ6章の「共に葬られた」「共に十字架につけられた」がその代表ですが、パウロはほかにも「共に苦しむ」「共に栄光を受ける」「共に生かされる」「共に高められる」など、キリストとの「共体験」を表す動詞を数多く用います(ローマ8:17、エペソ2:5–6、ピリピ3:10、コロサイ2:12など)。信仰者がキリストの物語そのものに巻き込まれていることを、最も具体的に表しているのがこの語群だと言えます。

第三は、「διὰ Χριστοῦ(キリストを通して)」 です。「神が私たちに、キリストを通して恵みを与えてくださった」というかたちで現れる用法で、キリストが救いの出来事を実現する仲介者であることを示します。信仰者が受けとる恵み、平和、和解、永遠のいのち、御霊の賜物のいずれも、キリストを通して与えられるのです。

これらの語彙はそれぞれ異なる角度から、ひとつの現実を指し示しています。キリストの中にいること(ἐν)、キリストと共に体験すること(σύν)、キリストを通して受けとること(διά)。すなわち、パウロにとって、信仰者の存在はこれらすべての側面を含むものとして語られているのです。

「参与」とは何か

ここまで参与論に関する研究史と語彙をざっくりとたどってきましたが、それでは、「参与」とは具体的にいったい何を指しているのでしょうか。

ひとつの手がかりとなるのが、シュヴァイツァーがパウロの「キリストにあること」を特徴づけたときに用いた言葉です。キャンベルが紹介しているのですが、シュヴァイツァーはそれを、キリストの死と復活への「実在的な共体験(a real co-experiencing of His dying and rising again)」と呼びました。ここでの鍵は「実在的(real)」です。信仰者がキリストの十字架と復活に「あずかる」というとき、それは単なる比喩でも、心理的な没入でもありません。ある意味で「本当に」共に死に、「本当に」共に生きるのです。

サンダースの整理を用いるなら、ここで起こっているのは「支配領域の移行」です。それまで罪と死の支配下にあった人間が、キリストとの参与をとおして、その支配領域から取り出され、キリストの支配する新しい領域へと移される。義認(神の前に正しい者と認められる)も、聖化(神に似た者へと造り変えられていく)も、将来の栄化(キリストと共に栄光に至る)という希望も、すべては「キリストの中にいる」という参与的な現実の土台の上に立っている。これが、サンダース以後の研究で広く共有されてきた見方の核心だと言えます。

その上で、キャンベルが強調するのは、この「あずかる」が、聖霊によって媒介されているという点です。信仰者がキリストにあり、キリストが信仰者のうちにあるという相互内在は、聖霊が両者の間を結びつけているからこそ成り立っています。だから参与とは、信仰者の側からの精神的な努力でも、心理的な没入でもありません。それは、神の側から差し出される現実であり、神ご自身が信仰者をキリストに結びつけてくださっている関係です。

要点をまとめると、こうなるでしょうか。信仰者は、キリストの外側で恵みを「もらう」のではなく、キリストの内側で生かされている。義認も、聖化も、栄化も、そして教会のかしらとしてのキリストとの結びつきも、すべてはこの「キリストの中にいる」という事実から流れ出してくる。これが、パウロにとっての福音の構造であり、「参与論」というテーマが指し示している現実なのです。

ぼくどくメモ

初めて「キリストにあって」に意味があると知った時、衝撃を受けました。それまではなんとなく読み過ごしていたものが、その時から全く違った見え方をするようになったのです。

ですが、これは単なる目新しい発見ではありません。その意味を知れば知るほど、パウロのメッセージが以前よりも鮮やかに浮かび上がってきたのです。

その中で、信仰とは、キリストを「対象」として遠くから信じることではなく、キリストの内側で生きることであり、キリストの十字架と復活という大いなる物語のなかに、自分自身が組み込まれていることに気づくことだと思うようになりました。

「参与論(Participation)」というと耳慣れない神学用語に感じるかもしれません。ですが、その内実は、聖餐式のたびに私たちが告白し、体験していること、まさにキリストの体にあずかるということです。


参照
Constantine R. Campbell, Paul and Union with Christ: An Exegetical and Theological Study (Grand Rapids: Zondervan, 2012).

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